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「獲物山」に撃たれる(後半)

4/19(水)

獲物の生命を奪う考察者である著者は死を肯定する。食う者と食われる者は同等であり、生と死は同等である。突然訪れるとも分からない死が輝けるものであるには、生が輝いていなければならない。山に挑戦し死する者を非難して、登山を安全な観光スポーツにすべく人工物を設置し道を敷き、そしてそこから外れずに歩かされるハイカーを嫌悪する。自然は死と隣り合わせの残酷なものであってよく、むしろそうあるべきである。

生が輝いていれば、生を輝かそうとしたのならば、死を受け入れることができる。しかしそんな考え方には危うさをも感じてしまう。なぜなら人間は自然の権力を王権として掌握するという勘違いをしてきたし、これからもそうするだろうから。殺人者や施政者は人を殺すのに人の輝きを利用するだろう。食う者の礼儀として奪った生命を全て食い尽くし、食いきれないものは獲らない。著者はそう言うけれど、礼儀とは信用に足るものなのだろうか。

もしかしたら自分の生命の輝きの下に、この家畜社会の消費バカたちを全て抹殺したいのかもしれない。そりゃあそうだ。人間が多すぎるからいけないのだ。それならば私も死んでしまいたい。でもそれではライフルは自分の喉元に突きつけられるだろう。私の脇腹に突きつけられたのも、そのライフルだ。憧れつつも自分にはできない、恐ろしい本だった。輝けない者の心を撃つとはヒドい。エゲツない。

ピアノ王子はいつの間にかフリー・ソロ登頂を終えて帰っていった。私は所詮「ゼニの効用力」によって生きていかなければならないのだろう。音楽に力を与えてもらいながら。音楽とは我々「音楽バカ」に残された最後の自然である。他人が作り出したものを受け取るだけのゲストではつまらない。自らの責任でそれを穫り狩って(刈り採って)くるのだ。

帰宅して先日から借りたままのマンガ「夕凪の街・桜の国」(双葉社。2007年に映画化もされているそう)を読んだ。「この世界の片隅に」のこうの史代さん作。ちょうど「この世界の…」に出てきた「すずちゃん」と重なる女性と、被曝三代にわたるラブ・ストーリー。残酷なのは自然などではなく、どうしたって人間の方だ。それも身近な、そして自分自身の。連鎖する残酷さ。だけどそんな残酷さにまみれた生活の中に、ほんのりとしたあったかさがある。ギラギラした輝きの危うさを浴びた後で、このマンガを読んでホッとした自分もいた。冷たい人間だからこそ感じられるあたたかさというものもあるのだと思う。
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「獲物山」からいくつかの至極の、あるいは危うい言葉。

いったい我々はどうすれば家畜から脱することができるのか。答えは簡単だ。自然界から自分で食料をとってくればいい。自分の食べる物を自分で調達する、それだけで人は本来の姿に戻ることができる。(P.121)

自分の食べ物を、自分で殺せば、その連鎖の中に自分も含まれていることを実感せざるを得ない。(中略)おそらくその恐怖から目を背けたくて、人は生活から死の匂いを排除してきた。だが真の意味で、震える魂を救済するには、恐怖を感じさせた野生に、もう一度身を置いて、山の生き物たちと同じ時空間を過ごすしかない。森で命を繋ぐということは、ここに生きる生命体と同じように、自分が生きて輝いているということだからである。命を輝かせること以外に、死を受け入れる方策はないからである。(p.61)

世界は自分とまったく無関係に存在する。自分はいてもいなくてもまったく世界には関係ない。それでいて世界は、自分の感覚器官と神経系を通してしか認識できない。自分は世界の中心ではないのに、世界は自分を中心にしか認識することができないのだ。(p.128)

己の命から目をそらすことは責任の放棄である/死は悪か?(P.40)

生と死は連鎖している/殺しに理由はいらない(P.81)

北米の先住民は、食料調達の技量や幸運を誇示するのを好まない。精霊的な世界観を大切にし、自分より大きな存在を話のネタにしたり、自分を実際より大きく見せようとすることを、はずかしいことだと考えるからだ。(P.92)

難しい理屈ではない。やるかやらないかは自分次第。できるかできないかは能力と状況次第。自然環境の中、自分の力で生きる瞬間にこそ、真の自由は存在する。(P.26)


by barcanes | 2017-04-23 00:14 | 日記 | Comments(0)