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ある飲食店主と「毒を吐く」ことについて語らう。彼はいつか自分の店を持ちたいと思って修行を始めた頃、接客が全くダメだった。愛想を使うなんてこともできず、散々「使えない奴だ」と言われ続けて、諦めて辞めた。その後旅先の飲食店で受けたもてなしで目が覚めて、元いた店に頭を下げて戻らせてもらった。それからは180度変わって、お客さんとも楽しく付き合えるようになった。今まで聞かなかったオシャレな音楽を聞き、お店で流すようにもなった。

だからお客に毒を吐くようなことは、昔の自分に戻ってしまうようで怖いのだと。しかし最近、少しずつ自分の好きだった音楽を流したり、お客さんに軽い毒を吐くこともできるようになった。それはゲンちゃんの影響だと。っておい!

曰く、先人がいるからこそできることだと。良いか悪いか、私の影響力というのもあったものである。

彼同様、私もこの世界に足を踏み入れた頃には、接客というものが全くできなかった。そのころお世話になった人に「社交性というものはこれからの人生に損になることではないから、まあやってみろ」と言われて、それからお客さんに声をかけたりすることができるようになった。しかし人間の素性なんてものはそう簡単に克服できるものでもなく、やはり苦手なものは苦手であり、この商売が自分に合ってないと思い続けて今に至るわけである。

そうして考えてみると、「毒」とは本音であり、言われた相手が嫌がるようなことかもしれないし、間違ってるかもしれないことである。そういうものを封じ込めて良い人を演じても、そのストレスがたまればこの商売を続けていくことができなくなってしまう。商売はエンターテイメントだという意見もあるが、我々にとって商売は生活でもあり、その大きな使命は、そんなものがあるとすればだが、それは続けていくことだ。そのためにはその人なりのバランスを取っていかなきゃならない。

そのためには多少の「毒」も吐いていかないといけないが、時と場合をわきまえよと言われれば、全く反論の余地なし。気をつけたいと思います。

これでも子供ができてから丸くなったと言われたりするのですが、それは他人への関心がなくなったということもあり、他人のことをかまってられる余裕がなくなった、ということかもしれません。無関心とは愛の対極でもあるので、そういう意味では「毒」とは愛でもあるのかもしれません。歪んだ形の愛ではあれ。
by barcanes | 2013-04-05 02:58 | 日記 | Comments(0)