原発と精神疾患
2011年 06月 20日
ある精神科医という人が書いた新聞記事を読んだ。私は精神的疾患について全く知識がないのだが、原発の問題を精神病的問題として捉えると、どういったことになるだろうか。いわゆるトラウマやPTSDといったことだ。
原発の問題は、科学的に正当かと言えば理論的には可能なのだろう。技術的には安全性を高めていくことによって可能になるのかもしれない。経済界としては、原発がないとうまくいかないのかもしれない。政治的には利権とかいろいろあって簡単には変えられないのだろう。国際的にはいろいろ利害が絡んで他国の顔色をうかがわなければいけないのだろう。国家政府としてはもろもろ複雑で、妥協点を探しながら曖昧な路線を進んでいくしかないだろう。
それらをとりあえず置いといて、我々の精神的ダメージとして考えたとき、どのような対処があり得るのだろうか。
たとえば、ある場所で理不尽な事件事故に遭った。精神的にかなりダメージを受けてしまった。たまたま運が悪かっただけなのか、それとももしかして被害にあった自分に理由があったのか、誰かのせいにしたいけど、よく分からない。確たる犯人も見つからない。
そんな場合、そんな事件事故に遭ったことによる精神的ダメージは、どうしたら克服できるのだろうか。少なくとも、その現場には近づかない方がいいだろう。なにかを思い出させるようなものは見せない方がいいだろう。どこか新しい環境で、過去を振り返らずに、前を向いて生きた方がいいのかもしれない。
あるいは、しっかりと事件事故の経緯をたどり、原因を見つめ、自分に非がなかったのだと確認したり、またあるいは、目をそらして忘れようとするあまり、無くしてしまった記憶を再発見することから始めたりするのかもしれない。
このような捉え方をしてみるとき、原発事故の直接の原因となっている福島第一原発が、この先たとえ廃炉になるとしても、何十年も、ことによれば何百年も何千年もそこに残るわけで、事故現場の記憶は決して消えることはない。
原発を国策として取り入れ誘致した政治家や利権業者や荷担した者どもを、犯人としていくらマツり上げても、東電の社長が頭を下げてくれるぐらいのことで、誰も牢屋に入ることもない。
そして仮に、国内の原発が全て停止されようと、大量の核燃料と核廃棄物が残され、また事故を起こす可能性を残したまま、この国のどこかにひっそりと眠り続けることになる。過敏にもなれば、列島中の原子力関連施設が存在しているというだけで、目障りで仕方ないだろう。
このような状況で、精神科医ならどのような診断を下し、どのようなカウンセリングをしていくのだろう。どのようにして生活の中に安心や安全をイメージさせるのだろうか。
自覚ある者なら、このような生活を享受した全ての国民にも責任の一端があるのだから、自分も共犯の同罪なのだと罪を反省し、その罰を乗り越えていこうとすることで前に進めるのかもしれない。
しかし、そのようなことが、罪を償い罰を受けるようなことが苦痛で仕方ないという人にとっては、自分に非を認めるようなことは、決して良い方法ではないだろう。
思うに、そのような種類の人が、原発事故によって精神的ダメージを受けた人、すなわち被害者側と、明らかに判断力や決定力を持った加害者側と、両方にいるのだろう。
この件、原発事故の件に関しては、無関心を除いて、すべての人が精神的疾患を患ったのだ。無関心の人も、精神的ダメージを受けたくないがために無関心を装っているのだ。
そして、この件に関しての結論としては、原発の安全性を高めていく、というやり方では解決できないだろうということだ。少なくとも明らかに、誰の目にも明らかに安全だろうということが理解できなければいけない。
原因を取り除くことができなければ、環境を変える、環境が変わってゆくということが、目に見えてはっきりしなければいけない。移住をするという選択はもちろんある。原発のない沖縄にでも行くしかない。
そうでもなければ、我々の精神疾患を治療していくには、少なくとも原発と放射能汚染の危険性をできる限り抑えていくということ、すなわち少なくともこれ以上、核燃料と核廃棄物を増やさないということ、そして、そのような方向にこの国の電力事情が変わってゆくことが「明らかに」分かるようになるということ、に尽きるだろう。
**********
それまで何年、何十年かかるだろう。それまで我々のこの精神疾患は続くのだ。大げさに言えば、この精神疾患を共有することが、日本人であることの基盤になるのかもしれない。国家や国民という共同幻想を持つことも、何かの主義や思想を持つことも、ある種の病気だとすれば、我々の原発疾患も、ある意識の共有、共感であるかもしれない。
このように考えてみると、逆に、「無関心」こそがこの国を成り立たせてきたということが分かってくる。いちいち悩まず考えず、無関心の間に世の中は勝手に進んでいく。無関心のためのいろいろな罠が張り巡らせてある。無関心こそが幸福の指標であるかのような時代だった。
そしていつの間にか、こんな事態になった。しかし、いちいち気にしてたら、精神的にも負担になるし、日々生活してゆくのも大変だ。気にした方がいいのか、気にしない方がいいのか。
このようなとき、我々が考えるのはいつも戦争なのだろう。なぜなら、無関心が人を見殺しにするからだ。
******************
追記あり
6月27日「6月20日の「原発と精神疾患」追記」
原発の問題は、科学的に正当かと言えば理論的には可能なのだろう。技術的には安全性を高めていくことによって可能になるのかもしれない。経済界としては、原発がないとうまくいかないのかもしれない。政治的には利権とかいろいろあって簡単には変えられないのだろう。国際的にはいろいろ利害が絡んで他国の顔色をうかがわなければいけないのだろう。国家政府としてはもろもろ複雑で、妥協点を探しながら曖昧な路線を進んでいくしかないだろう。
それらをとりあえず置いといて、我々の精神的ダメージとして考えたとき、どのような対処があり得るのだろうか。
たとえば、ある場所で理不尽な事件事故に遭った。精神的にかなりダメージを受けてしまった。たまたま運が悪かっただけなのか、それとももしかして被害にあった自分に理由があったのか、誰かのせいにしたいけど、よく分からない。確たる犯人も見つからない。
そんな場合、そんな事件事故に遭ったことによる精神的ダメージは、どうしたら克服できるのだろうか。少なくとも、その現場には近づかない方がいいだろう。なにかを思い出させるようなものは見せない方がいいだろう。どこか新しい環境で、過去を振り返らずに、前を向いて生きた方がいいのかもしれない。
あるいは、しっかりと事件事故の経緯をたどり、原因を見つめ、自分に非がなかったのだと確認したり、またあるいは、目をそらして忘れようとするあまり、無くしてしまった記憶を再発見することから始めたりするのかもしれない。
このような捉え方をしてみるとき、原発事故の直接の原因となっている福島第一原発が、この先たとえ廃炉になるとしても、何十年も、ことによれば何百年も何千年もそこに残るわけで、事故現場の記憶は決して消えることはない。
原発を国策として取り入れ誘致した政治家や利権業者や荷担した者どもを、犯人としていくらマツり上げても、東電の社長が頭を下げてくれるぐらいのことで、誰も牢屋に入ることもない。
そして仮に、国内の原発が全て停止されようと、大量の核燃料と核廃棄物が残され、また事故を起こす可能性を残したまま、この国のどこかにひっそりと眠り続けることになる。過敏にもなれば、列島中の原子力関連施設が存在しているというだけで、目障りで仕方ないだろう。
このような状況で、精神科医ならどのような診断を下し、どのようなカウンセリングをしていくのだろう。どのようにして生活の中に安心や安全をイメージさせるのだろうか。
自覚ある者なら、このような生活を享受した全ての国民にも責任の一端があるのだから、自分も共犯の同罪なのだと罪を反省し、その罰を乗り越えていこうとすることで前に進めるのかもしれない。
しかし、そのようなことが、罪を償い罰を受けるようなことが苦痛で仕方ないという人にとっては、自分に非を認めるようなことは、決して良い方法ではないだろう。
思うに、そのような種類の人が、原発事故によって精神的ダメージを受けた人、すなわち被害者側と、明らかに判断力や決定力を持った加害者側と、両方にいるのだろう。
この件、原発事故の件に関しては、無関心を除いて、すべての人が精神的疾患を患ったのだ。無関心の人も、精神的ダメージを受けたくないがために無関心を装っているのだ。
そして、この件に関しての結論としては、原発の安全性を高めていく、というやり方では解決できないだろうということだ。少なくとも明らかに、誰の目にも明らかに安全だろうということが理解できなければいけない。
原因を取り除くことができなければ、環境を変える、環境が変わってゆくということが、目に見えてはっきりしなければいけない。移住をするという選択はもちろんある。原発のない沖縄にでも行くしかない。
そうでもなければ、我々の精神疾患を治療していくには、少なくとも原発と放射能汚染の危険性をできる限り抑えていくということ、すなわち少なくともこれ以上、核燃料と核廃棄物を増やさないということ、そして、そのような方向にこの国の電力事情が変わってゆくことが「明らかに」分かるようになるということ、に尽きるだろう。
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それまで何年、何十年かかるだろう。それまで我々のこの精神疾患は続くのだ。大げさに言えば、この精神疾患を共有することが、日本人であることの基盤になるのかもしれない。国家や国民という共同幻想を持つことも、何かの主義や思想を持つことも、ある種の病気だとすれば、我々の原発疾患も、ある意識の共有、共感であるかもしれない。
このように考えてみると、逆に、「無関心」こそがこの国を成り立たせてきたということが分かってくる。いちいち悩まず考えず、無関心の間に世の中は勝手に進んでいく。無関心のためのいろいろな罠が張り巡らせてある。無関心こそが幸福の指標であるかのような時代だった。
そしていつの間にか、こんな事態になった。しかし、いちいち気にしてたら、精神的にも負担になるし、日々生活してゆくのも大変だ。気にした方がいいのか、気にしない方がいいのか。
このようなとき、我々が考えるのはいつも戦争なのだろう。なぜなら、無関心が人を見殺しにするからだ。
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追記あり
6月27日「6月20日の「原発と精神疾患」追記」
by barcanes
| 2011-06-20 23:44
| 日記
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