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春樹さんのスピーチと「効率」

村上春樹がバルセロナで震災と原発に関するスピーチをした、と朝のニュースでやっていた。あとでネットで全文を読んだ。「効率」をヤリダマに挙げていた。震災からちょうど3ヶ月、各地でデモ行進が行われたようだった。

僕は夕方、雨も上がったようだったので、走りに行った。海辺は湿度100%の霧のような天気で、ガスの出た山の上をのようだった。山の上を走っているのに波が砕けるの音が聞こえてくるのだから気持ちよかった。時折霧雨が軽く降って、涼しげながら汗もいっぱいかいて、久しぶりに全身、靴までずぶ濡れになった。呼吸のたんびに胆の底から黒いものを吐き出すようにして徐々にスピードを上げて3キロほども走れば、もうすっかり息も切れて、ふくらはぎも筋肉痛で、十分にぐったりした。

夜、今日の村上春樹について話している人がいた。あたしすごい好きなんだけど、あんな顔してるとは知らなかった。ふつうのサラリーマンみたいなカッコウして、原発反対みたいなまともなこと言ってほしくなかった。イメージ崩れちゃった、見なければよかった、そんなことを聞いていた連れの男性は、大して興味なさそうにうなずいていた。たまたま見たtwitterでは、「日本人の無情」という表現に噛みついて、あの「日本人」にはアイヌなど少数民族は含まれていないはずだ、と差別的なニュアンスを漂わせている人がいた。どうしてあれがそんな卑屈にとれるのだろうか。

震災後、いろいろな作家や文筆家がなんらかの文章を発表し、詩人やアーティストも作品を出している中、春樹さんはまだなにも言っていないようだったから、僕はいつかなにか言ってくれるだろうと期待していた。確かにあの大げさともいえる身振り手振りでスピーチする映像は少し違和感があった(動く春樹さんを見るのは初めてだと思う)。言葉の表現にツッコミを入れたくなる人がいるのも分からなくはないけど、いたってまともなことを言っていた。やはり数多くの読者を持ち、注目に値する人だから、様々な賛否が巻き起こるのだろう。しかしそれもきっと一瞬だ。一瞬で忘れられてゆく。

雑誌などで明治維新と開国から近代史に関する文章などを見ていると、日本をつき動かしているテーマは常に「外圧」なんだろうと思わせる。それは史家たちがそう描いてきたからなのか、それともやはり実際にそうだったのか、よく分からない。いわば外圧史観といったところかもしれない。自己拡大の試みはことごとく失敗してきたという反省も含めれば、正当防衛史観とでも言うべきか。

とにかく外圧がなければなにも動かないような戦後史の馴れ合いの果て、我々は内側からはなにも変わらない国民となったのだ。そしてそれは日本人の美徳とさえ言われる。つまりパニックを起こさない、自ら治安と秩序を守ろうとする性格だ。そのことになんの引け目もない。我々はほとんど無政府状態でも結構やっていける。カリスマ的な指導者など欲していないのだ。

なんで変わらなきゃいけないの?以前、ある同年輩の女性が僕に言った。それなりの育ちとそれなりの暮らしと、そして女性としての不運(不幸とまでは言えまい)を嘆くから、僕は「自分のなにか」を変えなきゃいけないんじゃないの?と言うほかなかった。その答えが、究極的にはそれだった。

我々が自分の内側から、なにかを変えなければ、と思うときには、なにかの危機感がある。今のままじゃあまずい。でもその危機感をホントに危機と思うのか、それともまあこのままなんとかやっていけるのではないかと思うのか、あるいは今さら自分のやり方なんて変えられねえ、自分の考え方を貫いてやると思うのか、危機を見ぬふりして、今までこれでよかったんだから、これからも同じでいいはずだ、と思いたいのか。人は内圧でなんか滅多に動かない。

言ってみりゃ、内圧は欲求不満の欲望に対して働くのであって、危機感など「外圧」によってしか働かないのだ。村上春樹が重要なスピーチをするのはいつも外国からで、紙面の日本語の内側からは欲望を提示してそれに応える。才気ある日本のアーティストが外国に行かなければならないのはそのためだし、日本が自衛国家であるということはそういうことなのだろう。内圧の愛と欲望は自愛として自己消費し、自分で自分をぐったりさせるしかない。このオナニー野郎!

我々の生きる道とは、おそらく、効率の悪い生き方なんだろう。効率のいい生き方とは、スタートとゴールが一直線に結ばれて、あっという間のスピード感でものごとが進んでゆく。生と死も。生まれて死ぬまで(あるいは死後さえも)いくらかかるか計算されてしまう。生命保険額が決定される。民衆の歴史とは、そういう計量化に対する反抗の歴史であったはずじゃなかったのだろうか!奴隷とは、人間がものとして取引可能の「数値」が付けられることではなかったのか。

効率の悪さこそ、不確定であることこそ、計量不可能であるからこそ、我々が人間であることなのだ。いわゆる幸福感など、人間らしいということから離れて、確定感や安心感、歯車のひとつになるということにさえ、つまり自由よりも不自由を幸福ととらえるように意味が広がっていく。幸福感などあてにするな。我々は300円かそこいらですぐに出てくる飯を食うための効率を求めて生きているんじゃない。ただ飯を作って食うために朝から晩までかかったりして、そういうことが幸せなんじゃないのか。なにかひとつのことをやりとげるために一生かかるなんて、すばらしく非効率じゃないか!

効率と非効率の戦いでは、明らかに非効率の分が悪い。しかし、効率性はより効率性のいいものに巻き取られていく。それが経済の論理だ。しかし人間っちゅうものは効率だけじゃあ息が詰まるってもんだ。音楽も酒もタバコもなんの役にも立たねえ。そんな「遊び」の空間が必要なんだ。子供は言うこと聞いてくれないし、思い通りに動いてくれない。子供は人間らしいからね!

国家存亡の危機にあっても、そこには人間がいるのだ。国境や国家存続のために死んでも、そこに人間がいなかったらしょうがないじゃないか。残念ながら放射能の影響は計測不能で、全く不確定。安全や安心を求めても、もう無理なのだ。人間らしい幸福は、そんなところじゃない。なにか大事なもののために、効率悪くても生きていくしかない。大事なものって、子供がいる人は子供なんじゃないの?なにかを残すのなら、人間を残すことなんじゃないの。人間を残せない人は、なにか伝えるべきものを残そうとするんじゃないの。

ということを春樹さんのスピーチが言っていたわけではないが、そんなことを考えてみた次第です。
Commented by at 2011-06-20 00:49 x
今回の春樹さんのスピーチは素晴らしかった。エルサレム賞、フランツ・カフカ賞、いずれも英語のスピーチだったので、日本語でこれだけ長く喋る映像は初めてなんじゃないだろうか。きっと恥ずかしくて身振りが大きくなっちゃったんじやない?「効率」その通りだ。あたしはその見た目も大好きだけど。
Commented by barcanes at 2011-06-21 01:41
Qさま、
なるほど、日本語のスピーチ映像は珍しかったのですね!
by barcanes | 2011-06-11 15:46 | 日記 | Comments(2)