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仙台荒浜へ

翌朝目が覚めたら1時間に一本のバスが出る15分前だった。仙台駅前午前のざわめきを走り抜け、予定の一本前のバスに乗れた。深沼海岸行き。乗客は10名ほど、見物客など僕だけだろう。

仙台に来る予定もなかったし、特に知り合いもいなかったので、なんのとっかかりもなかった。昨夜のネットカフェに着いてから、電車とバスの路線図を見ながら今日歩く行程のあたりをつけた。今夜はイベントが入っているから、お店を開けるためのリミットは3時の新幹線に乗ること。津波の被害の大きかった仙台市若林区、「荒浜」という地名がテレビや新聞で繰り返されていて頭の中に残っていたから、そこに決めた。そしてそこから北に向かって歩く。とにかく、歩きたかったのだ。

バスは仙台市街を南に抜けて行くが、特に変わった様子もなさそうな車窓のまま、海岸までもほど遠い場所で止まった。終点だといって降ろされた。住宅地のはずれ、干からびた田畑の間の一本道がまっすぐ続き、高台に自動車道路が横切っている。地図を買うのを忘れてた。初めて来た町の知らない場所だ、とにかくまっすぐ行ってみよう。

城塞都市の城門のような自動車道の高架は、不穏な雰囲気を感じた。門をくぐって、この自動車道が津波被害の境目となった国道6号線仙台東部道路だと分かった。堤防となった側面には枯れ枝やゴミが引っかかっていた。遠くに曇った灰色の水平線まで、一面の茶褐色の世界が広がっていた。高速の車の持続音が、海も間近の揺れる松の木と波の音のようにも聞こえ、下道を走り抜けるダンプカーと遠くで作業している重機の音が、巻き上げる粉塵の匂いと一緒に、荒地の風の地鳴りのように濡れた潮臭さを運んできた。乾いているのに湿っていた。いや、湿ったものが乾いたのだろう。

まっすぐ進んでいくと、作業中の迂回を指示する警備員がいて、特にまっすぐ行かなければならない理由もない僕は左に折れた。迷彩の作業服を着た一団が田んぼの泥にまみれて瓦礫の撤去をしていた。なにかを捜索しているのかもしれなかった。強い風に吹かれ、誰もが無言で、苦い表情を浮かべていた。足を止められず、うつむき気味に通り過ぎた。

ダンプや自家用車が行き交う道路から、田んぼの中の車の通らなそうな道に入った。農地には随所に集められた瓦礫が無数にあり、それぞれに白いロープが張られていた。自転車に乗ったおっちゃんとすれ違い、片づけをしている民家の軒先を通り抜けた。集落の小さな墓地はきれいに花が飾られていた。どん突きを右に曲がって、もとのまっすぐの道に戻った。交通整理をしている作業員がいて、その間を通るのがためらわれ、気持ちの中で頭が下がった。

中には庭先もきれいに片づけられた民家もあり、作業は着実に進んでいるのだろう。しかし作業している人たちの間をすれ違って歩くのは、どうにも心が痛む。車で通過しただけでは分からなかっただろう。誰もいないところを歩くのはまだ気が楽だ。この場所が元はどんなだったかが分からないからだ。

それに、こんなところに見物に来やがってなんのつもりだ!と問われたらどうしようかと少しだけビビっていた。車で自宅の様子を見に、あるいはおそらく親戚や友人を連れて来ている人はいたが、一人で歩いてるヤツなんて自分しかいなかった。僕はなにをしに来たと答えればよいのだろう。怒られてもアホだと思われてもいいから、歩きたかっただけなのだ。とにかく、海まで行こう。海を見て帰ろう。

実際は誰も僕のことなんかに構うような人はいないのだが、人の家の中を土足で踏みにじっているような気分にもなる。海に近づいてくると住宅も多く、学校やガソリンスタンドやお店もあって、道に砂も混じり、見慣れた海岸の町のようだった。昭和十年竣工の石の橋が、石の細工までしっかりと残っていた。貞山運河を渡って、コンクリートの公衆トイレが残る海岸にたどり着いた。一時間ぐらい歩いた。歪んだ松の林は、おそらく津波の水位ぐらい枝を落とし、ひしゃげた幹を恥ずかしげに露わにしながら立っていた。低い石段を上ると白い砂浜が広がり、波打ち際にはテトラの列を覗かせていた。振り返れば、見渡す限り一面、くすんだ空に消えてゆくまで、ほんとに遠くまで荒地でくすんでいた。

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松林とアスファルトの「サイクリングロード」が海岸線に沿って、遠くに江ノ島が見えるような錯覚がした。ただ砂浜の白さだけが、違っているだけだった。砂浜の漂流物を棒で突っつきながら歩いているおじさんがいた。砂浜は洗われた貝殻が転がっている、変わらぬ砂浜のようにも見えた。津波の翌日のこの海岸の光景を、想像したくはなかった。強い潮風はタバコの一服をあっという間に燃やし尽くし、海のホワイト・ノイズはすべてをかき消しながらも、ルー・リードの「Metal Machine Music」のように、なにか叫ばんと蠢いていた。

たかだか一時間歩いただけで、もう十分だという気分になった。ここに住んでいれば、もう十分ということはない。一時的なボランティアだって、もう十分ということはない。だけど、僕が分けてもらえるような痛みはこんなものだろう。十分にもらえるものはもらってきたから、これで今日は帰ろう。

それでも海はいつでも、誰の「行き先」にもなってくれる。今日初めて、ケータイで海の写真を撮った。足下には小さな黄色い花が咲いていた。目指す海があってよかった。北に向かって歩き出すと、海岸の堤防道は切れていた。あとで地図で見たら、川のないはずのところに流れの速い川ができて、道を分断して海へと注いでいた。水路や運河が張り巡らされたこの広大な農地に、許容量を越える水が溜められて、あふれ出したのだろう。仕方なくもと来た道を戻った。
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迷ってもいけないので、交通量のある車道をひたすら行くことにした。45度に倒れた電柱、いくつもの立ち上がった車のバンパーやフロントグリル、寝っ転がった松の根、なにもかもが何かに似ている。どこかで見たことがある。散乱するタイヤ置き場、瓦礫とガラクタの山、子供の頃近所にあったスクラップ置き場の油の匂いを思い出し、箱根や丹沢の立ち枯れと倒木の山道を思わせ、ウッドストックの映画の泥のエンディング、戦場のようだが戦場には行ったことがないし、火事場のようだが焼けた跡はない。その全ては何にも似ていないのに、見たことのある断片の組合わさったものとして、脳が処理しようとしているのだろう。

ひび割れ、土泥の干せた路肩を歩きながら、車が途切れるとチュンチュンと鳥の声が聞こえてくる。よく見ると瓦礫のあいだを低く小鳥が飛び回っていた。小さな祠と、それを守るようにまさに鎮守の杜といった数本の松のかたまりが、荒れた田んぼの真ん中に奇跡のように残っていた。住宅の近くでは木の臼をたくさん見かけた。裸のレコードも目に入った。
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小学校低学年ぐらいの女の子が二人、通り過ぎる車をつかまえようと声を出して客引きしているコンビニがあって、子供の声を聞いたのも、お店があることも、食べ物や飲み物が売っていることも不思議な感じがして、思わず吸い込まれてしまった。ちっちゃいユニホームを着ている女の子に、パンはあるの?と聞いたら、「土足のままどうぞー」と言って冷蔵コンテナの中に案内された。コンビニの建物の外で露天で商売しているのだ。

同年輩の父親が明るく話しかけてくれて、ホッとした。たくましく家族経営している姿に、思わずたくさん買い物をしてしまった。農村地帯をようやく抜けると信号がついていて、眺めは少し日常に戻った感じがした。川っぺりで腰を下ろして、さっき買った缶コーヒーを飲んだ。アスファルトのひび割れから、緑色の芽が伸びていた。
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高砂橋を渡ると工場地帯で、キリンビールの工場(散乱したビールやジュースを勝手に拾って持って帰っていく人のことをニュースでやっていた)の周りは、キレイに片づけられた場所があったり、すでに再開されたりキレイに再開の準備をしているお店がある中で、ケツの浮いた車が3台積み重なっているような、放置されたままの車が目に付いた。仙台港にまではたどり着けず、誰もいないのに昨日開幕したばかりの楽天のホームゲームの野球中継の音声だけが流れている閉鎖中のアウトレット・モールを通り抜け、仙石線中野栄の駅に着いた。計3時間半ほど歩いた。

東塩釜から先は不通、という表示を見ながらホームで電車待ちしていると、軽い地震で揺れた。誰ひとりぴくりともしなかった。仙台駅で予定どおりの新幹線のチケットを買うと、もう10分しかなかった。3時間もしないで藤沢に着いた。

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前日の新聞で、「被災者はそこに住み続ける者、ボランティアはいずれ去る者だ。いずれ去る者は、去った後の被災地にたくさんの役割が残ることを理想とすべき」「被災者の仕事作りを最大限におこなった後で、それでも手の届かない部分をボランティアに委ねる、という順序は重要だ。主役は被災者だから」「多くの人たちが自らの役割を見いだすことのできる『場づくり』がボランティアの本業であり、雇用に限らず、子どもにも高齢者にも、一人一人が活躍できる場をたくさん作り出すことが望ましい。(湯浅誠、反貧困ネットワーク事務局長)」という記事が印象に残った。

少し前の新聞では、「たとえば、シカはオオカミを見たら走る。これを、逃げたのではなく、脅威と闘い、正しく対処している姿だと肯定することだ」「『受動的な被害者』ではなく『能動的な生存者』として扱うことが必要だ。水を1杯渡すのではなく、『好きな飲み物を選んできて』と勧める」「外部から何かを押しつけるのではなく、正確な情報を与え判断は任せよう」という、イスラエルのトラウマ治療専門家の記事も心に残った。(4月21日付毎日新聞)

我々に何ができるのか。相手がいることであり、一方で我々が生きることはそもそも自己中心的なことでもある。献身や自己犠牲も大事だが、それだけではやっていけない。自分のためであることが誰かのため、世の中のためでもあること。自己中心的なことが世の中のなにかの役に立つ、ということをやれたらいいし、それを追求したい。それは主観と客観、ということだと思う。そして自分にできること、自分がしたいこと、自分はいったい何なのだ!と自覚しなければ、人のためにも世の中のためにもなりやしない、ということなんだと思う。

いい人になりたいわけでも、まともにしなきゃいけないというわけでもない。独りぼっちで生きるわけでもないのなら、悪人でも罪人でさえも、全ての人がこのテーマから逃れられないのではないだろうか。
by barcanes | 2011-04-30 20:56 | 日記 | Comments(0)