人気ブログランキング | 話題のタグを見る

高校の文化祭だと?

廃墟の町。荒野と化した住宅地の庭に、一本の梅の若木が残っていた。孫の生誕記念に植えたもの。「私は梅子、生きています。撤去しないでください」という札が掛かけられていた。

日本は80兆円ものアメリカ国債を持っているそうだが、手をつけられないのだろうか。お互いに借金を持ち合っていると、それはあってないようなもので、その返済は天文学的な未来の人々に残されるのだろう。ちょうど核廃棄物や廃炉になった原発や、ばらまかれた放射性物質の処理と同じように。

反原発のデモに行くより、東電の株価が崩落しているので、安い値段で株主になって、株主総会に行くというのもいいかもしれない。

******************

高校の文化祭だと?_c0007525_2133927.jpg夜はLou Reedの「Live In Italy」を聞いていたら、「これって高校の文化祭みたいですね」と言ってしまった輩がいて、その発言を看過できないオッサンたちに総攻撃にあってしまった。彼の名誉のために言っておくと、彼にとって「高校の文化祭」とは最上級の誉め言葉であり、高校生の頃が彼の栄光の時代だったと言ってしまうようなヤツなのだ。

確かにたかだか十数人のステージでも、世界の最前面に立っているかのような緊張感を感じることはできるだろう。彼にとってそれが世界のすべてなのだから。

世界が、社会が、高校みたいだったらどうだろう。ある年になったら先輩は卒業していって、自動的に自由と責任のある学年になることができる。しかし現実の社会はなかなか引退してくれない留年爺さんたちにいつまでたっても牛耳られていて、自由も責任も与えられはしない。どこまで行っても卒業できず、外に出るにはドロップアウトするしかない。いつまでたっても、明日のありすぎる世界なのだ。

顔の分かるような閉じた世界の内側で、普段見せない一面を出してみたり、隠し芸やお祭りで盛り上がるもいいことだが、芸能の民も祭儀の神様も外からやってくるものだ。なぜなら我々は内側だけでは保てないからで、外部が、外の世界が必要だからだ。

内側にいても、フロンティアの最前線にいて外に触れている感覚というものがある。Lou Reedの音楽にそれを感じられない奴が、「思ったことを言ってなにが悪いんですか」と言っちまったら、原発作った人たちが「便利になったのになにが悪いんだ」と言ってるのと同じなんだよ。外部(想定外というのも外部の感覚だ)に触れるリスクも、数十年数百年(ことによっちゃ核廃棄物の処理にかかる時間は一万年の単位だという人もいる)の未来の感覚もない輩が、安全とか安心とか言ってるのと大して変わらないんだよ。開き直るのにもさ、どっちにしろリスクが必要なんだよ。
by barcanes | 2011-04-13 21:12 | 日記 | Comments(0)