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2011年夏の大祓

今年も上半期の晦日である。神社では「茅の輪くぐり」「大祓え」「おはらひさん」などといった行事があって、この辺りでは江島神社と鶴岡八幡宮で行われているらしい。定休日とも重なったこともあり、鎌倉へ行ってみた。ちょうど3時の回の5分ほど前に着き、幾ばくかのお金を納め、お札とお祓いの祝詞のようなものが書かれた紙と、ひとがたの紙と白い紙吹雪と茅の葉片の入った紙包みをもらう。神職が恭しく出てきて、古事記の文章のような大祓の詞を先ほどの紙面を見ながら参加者全員で読唱する。いろんな神様が登場し、ひとがたには頭の上から爪先までの汗とケガレを染み着けて、紙片と葉片を両肩に振りかけ、半年のケガレを「清めたまえ祓えたまえ」と言って大海原へ流す。やはり日本の宗教心は、もろもろ海へ流すのである。その間だけ、雨がポツポツと落ちてきて、気分はいっそう浄化された気になる。順番をゆっくり待って、何列かの行列ごとに神職の後ろについて、直径3mぐらいはある大きな茅の輪を左回り、右、左と3周する。最後に御神酒を一口。以上、約45分の行程なり。

大祓詞と現代語訳

こうして、いろいろなことのあったこの半年をまとめて締めくくる。震災もあり、その前に私にとってはお店の10周年があり、そして身辺にも、自分の気持ちにも大きな変化があった。震災と原発事故があって、いろんなことを考え直した。3月4月は毎日のようにブログを書いた。自分がどう感じどう考えてきたのか、なにが分かってなにが分からないのか、そしてどう考えていけばいいのか、疑問や問題が次々に出てきて、自分にできることできないこと、やりたいこと、欲しいものいらないもの、そういうことがはっきりしてきたこの半年だった。いいお祓いになった。

そしてちょうど今日、はっきりと分かったことがあって、自分としては大きな決心をすることになった。いろいろな偶然が必然となって、この日に連なって集約されてきたのだ。それはとても、自然なことのように思えた。

八幡宮真ん前の、なおちゃんの「繁茂」でおそばを食べ、夏の夕立のような、大粒の天気雨が降った。最近、鎌倉の神社に行くとなぜか必ず雨が降り、そして止む。空気が浄化されて清々しい。「小川軒」でレーズンウィッチを買い、海まで散歩した。準備中の海の家が建ち並んで、夕焼けは曇り空の向こう、海は湿った砂の色に凪いでいた。

**********

夜は「太陽ぬ荘」で「Cane's3」のリハ。今度の18日の竹原ピストル君のライブで店主自ら前座をやるという、お金を払って来てくれるピストル君のファンには全く意味のない、申し訳ない企画なのだ。ドン引きにならないよう、今回は私は朗読に専念する。今回用意した詩に、ペダルスチール宮下とアコギしんぺーが伴奏をつける。一曲ずつ曲調をイメージして、コードをつけ展開を考えてゆく。言葉が入ってこなくても演奏でも楽しんでもらえるといいのだが、その前にまだまだ言葉の詰めが甘いので、これからもっと考えていかなくてはいけない。7月の前半はこれがメインイベントになりそうだ。

そのほか、こないだ盛り上がった同人誌を7月中にやろうということになったし、7月の後半にはまた相馬に行くことになりそうだ。昨日は冷蔵庫が一台壊れちまうし、いろいろやることが重なってきたけど、なんとかひとつずつ楽しんでやっていこう。

リハを終えて「田火田」で一杯。酢〆の肴がおいしかった。忘れられない〆の一日になった。明日から7月。輪くぐりして、新しいスタートだ。このブログもまた少し変わってくるかもしれない。
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by barcanes | 2011-06-30 20:28 | 日記 | Trackback | Comments(0)

6月20日の「原発と精神疾患」追記

6月20日の「原発と精神疾患」の追記)

ちょうど新聞に出ていたのだが、心理学で「解離」という現象があり、激しい心的外傷が起きたときに働く防衛機能であるそうだ。過去の事実を事実としては知りながらも感情としては全く感じない、という現象が引き起こされる、と説明されている。これはもちろん無関心とは言えないだろう。しかし一方で、政府要人から一般大衆まですべてが「解離」状態である、とも言えなくもない。

詳しくは「解離」ということで調べていただきたい。

ある雑誌の「東日本大震災23人の言葉」という特集で、池澤夏樹がこんなことを書いていた。「災害と復興がこの国の歴史の主軸ではなかったか。この国土にあって自然の力はあまりに強いから、我々はそれと対決するのではなく、受け流して再び築くという姿勢を身につけた。・・・脅威を意識して、日々それに怯えて暮らしてきたわけではない。それでは人間として生きていることにならない。知った上で忘れる。その時がくれば思い出せばいいと覚って忘れている。」(「新しい方程式が必要とされている」池澤夏樹 「kotoba」2011年夏号 集英社)

忘れる/思い出すということ、無関心、解離という心的病理、そのいずれもはっきりとは線を引き難く、困難の中で人が生きていくというためにはたらく自己防衛なのかもしれない。究極的には、その自己防衛のために、自分が生きることのために人の死を見殺しにすることもあるのかもしれない。

しかし、こうして考えてみても、無関心、これだけは痛みがないのだ。痛みを避けるのも自己防衛かもしれない。誰だって痛いのはイヤなもんだ。知りたくないことを知るのはイヤなことだ。そう考えてみると、知るということは痛みを知るということなのかもしれない。知りたいということは、痛みを知りたいという、ある種のマゾヒズムなのかもしれない。

ちなみに、上の文章は地震と津波に関して述べている部分で、原発については池澤氏自身が20年以上前に書いた本からの引用をしている。「原子炉というのは下りの坂道に置かれた重い車である。必要なのはブレーキだけで、アクセルはいらない。」

またこんな文章も。「原発はそれ自体が神話だとその時に覚った。文章論で言えば、動詞を欠いて形容詞と副詞だけで作られた文体、柱も梁もなくて壁紙だけでできている建物。大日本帝国も「万世一系」や「八紘一宇」や「万邦無比」、「五族協和」のような、動詞を欠いて形容詞句ばかりに支えられた神話だった。」「石油がなければ原子力がある、という議論が破綻した今、ひょっとしたら日本は先進国における新しい貧しさという点において世界の先端を行くことになるかもしれない。new povertyという言葉が流行語になったりして。」(同誌より)

この特集はその他に、ノンフィクション作家(「旅する巨人─宮本常一と渋沢敬三」「沖縄-だれにも書かれたくなかった戦後史」他)の佐野眞一の対談「原発で何かドラマが生まれたかい?何もない。これだけ重要なエネルギー産業の中から歌ひとつ、物語ひとつ生まれない。日本で最も歌われている民謡はおそらく「炭坑節」です。でも「原発音頭」ってないでしょ?歌が生まれないところを僕たちは見て見ぬ振りをしてきた。真剣に考えてこなかったんだよね」「被災地から戻って、被災者の言葉にならない言葉に答える言葉とはいったい何なのかと絶えず考えていた。言葉を失っても言葉を発しなくちゃいけない。新聞などの大手メディアが使う大文字の言葉に、僕は限りない胡散臭さを感じる。だから同じ言葉は絶対に使わないぞという覚悟で行ったんです。・・・昔、ゴールデン街で仲の良かったオカマをみつけたんですよ。・・・「電源車が来てほんとに助かってるのよ。これで髭が剃れて身だしなみが整えられる」って。それが僕の言う小文字なんだよな。」など示唆に富んでいた。

それから、熊本の水俣病と憲法前文を挙げたカン・サンジュン、「ウィーク・タイズ」というゆるやかな絆の重要さを示す言葉を挙げた「ニート」や「希望学」で知られる玄田有史、「放射能汚染についてオブラートに包んだような情報開示はやめるべきです。・・・日本の人たちを幼児扱いしているようにさえ思えます。」というピーター・バラカン、その他、広瀬隆、小出裕章、上杉隆、安田純平など、なかなか刺激的なラインナップであった。

もう一つの特集は「2011年宇宙の旅」で、リチャード・ブランソンの「ヴァージン・ギャラクティック」のプロジェクトについてのインタビューが面白かった。この季刊誌「kotoba」、1400円と高かったのですが、なかなか面白い雑誌でした。
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by barcanes | 2011-06-27 22:56 | 日記 | Trackback | Comments(0)

公平性という納得のしかたについて

テレビで東北の被災地に支援物資を効果的に届ける活動をしている同年輩とおぼしき、ある大学講師が語っているところを断片的にだが見て、印象に残った。彼は公平性、平等性とは納得の仕方のひとつでしかない、と言っていた。

たとえば400人いる避難所に毛布が300枚しかなかったとする。すると、行政的には1枚も配布できないということになる。なぜなら公平性が保てないからだ、という。

しかし現実的には、全員に渡らなくても要らないという人や我慢できるという人がいたり、年寄りや子供、女性、体の弱い人から順番に渡ればよいということで納得ができるのではないか、と。

公平性とは時に、罠になる。300あっても、公平でなければみんななかったことにしましょうといって、0になってしまうことがあるのだ。

こういうときにいつも思わされるのは一人一票の選挙権だ。国会議員の総選挙などでは一票の格差問題が取り上げられることになる。ある程度の誤差は仕方ないが、一票の重みが2倍以上になるのはやはりおかしいと思わざるを得ない。もちろんこれは選挙制度にも関係しているのであって、2大政党制を成立させるために用いた小選挙区制の弊害とも、あるいは罠とも言えるだろう。なにかを成し遂げるためには人間の公平性や平等などは簡単に破られる。選挙制度は常に悩ましい問題だ。

人間は1以下に割り切れない、ということは真実だ。人は小数点以下の存在ではない。しかし安心や幸福や感情というものは常に、公平でも同等でも平等でもなんでもない。

僕は飲食店での支払いの際の「割り勘」ってヤツが嫌いなんだけど、それはたとえみんなが同じものを飲み食いしたって、それによって得たものはみんな千差万別なのだから、とか、金持ってるヤツと貧乏なヤツでは違っていい、とか、年上と年下、男と女、とか、いろいろな違いがあるのだから、それで支払いが違って当然だと思えるからだ。逆に言うと、「割り勘」に納得がいかないから、不平等でいいのだ。

しかし、「割り勘」が納得のいく一番簡単なやり方だというなら、その仲間内ではそれでいいのだろう。貸し借りを作ったり優劣をつけるようなやり方が好まれない間柄なのだ。

つまり我々は、自分が他の人に比べて取り過ぎたり、あるいは取り損なったりしていないというような意味での「安心」というものと、人が1以下に割り切れないという真実とを取り引きしているということになる。ここで問題となっているのは、真実と安心の両立が、ある人間関係の中で、ある集合の中でどのように成り立つのかということだ。そこにどのような人がいて、どれだけいろいろな人間がいるのかを知ることができるのか、ということだろう。

知るということは大変なことだ。だから平等や公平ということで納得しようとしてしまう。これはある意味、罠なのだ。子供たちにお菓子を平等に配る、というということとはわけが違う。

平等や公平性は、社会の絶対的な条件ではなく、あくまで納得の方法のひとつに過ぎない。思考停止せず、他にも納得できるやり方があるかもしれないときには、それを探さなければならないのだろう。
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by barcanes | 2011-06-21 20:56 | 日記 | Trackback | Comments(0)

原発と精神疾患

ある精神科医という人が書いた新聞記事を読んだ。私は精神的疾患について全く知識がないのだが、原発の問題を精神病的問題として捉えると、どういったことになるだろうか。いわゆるトラウマやPTSDといったことだ。

原発の問題は、科学的に正当かと言えば理論的には可能なのだろう。技術的には安全性を高めていくことによって可能になるのかもしれない。経済界としては、原発がないとうまくいかないのかもしれない。政治的には利権とかいろいろあって簡単には変えられないのだろう。国際的にはいろいろ利害が絡んで他国の顔色をうかがわなければいけないのだろう。国家政府としてはもろもろ複雑で、妥協点を探しながら曖昧な路線を進んでいくしかないだろう。

それらをとりあえず置いといて、我々の精神的ダメージとして考えたとき、どのような対処があり得るのだろうか。

たとえば、ある場所で理不尽な事件事故に遭った。精神的にかなりダメージを受けてしまった。たまたま運が悪かっただけなのか、それとももしかして被害にあった自分に理由があったのか、誰かのせいにしたいけど、よく分からない。確たる犯人も見つからない。

そんな場合、そんな事件事故に遭ったことによる精神的ダメージは、どうしたら克服できるのだろうか。少なくとも、その現場には近づかない方がいいだろう。なにかを思い出させるようなものは見せない方がいいだろう。どこか新しい環境で、過去を振り返らずに、前を向いて生きた方がいいのかもしれない。

あるいは、しっかりと事件事故の経緯をたどり、原因を見つめ、自分に非がなかったのだと確認したり、またあるいは、目をそらして忘れようとするあまり、無くしてしまった記憶を再発見することから始めたりするのかもしれない。

このような捉え方をしてみるとき、原発事故の直接の原因となっている福島第一原発が、この先たとえ廃炉になるとしても、何十年も、ことによれば何百年も何千年もそこに残るわけで、事故現場の記憶は決して消えることはない。

原発を国策として取り入れ誘致した政治家や利権業者や荷担した者どもを、犯人としていくらマツり上げても、東電の社長が頭を下げてくれるぐらいのことで、誰も牢屋に入ることもない。

そして仮に、国内の原発が全て停止されようと、大量の核燃料と核廃棄物が残され、また事故を起こす可能性を残したまま、この国のどこかにひっそりと眠り続けることになる。過敏にもなれば、列島中の原子力関連施設が存在しているというだけで、目障りで仕方ないだろう。

このような状況で、精神科医ならどのような診断を下し、どのようなカウンセリングをしていくのだろう。どのようにして生活の中に安心や安全をイメージさせるのだろうか。

自覚ある者なら、このような生活を享受した全ての国民にも責任の一端があるのだから、自分も共犯の同罪なのだと罪を反省し、その罰を乗り越えていこうとすることで前に進めるのかもしれない。

しかし、そのようなことが、罪を償い罰を受けるようなことが苦痛で仕方ないという人にとっては、自分に非を認めるようなことは、決して良い方法ではないだろう。

思うに、そのような種類の人が、原発事故によって精神的ダメージを受けた人、すなわち被害者側と、明らかに判断力や決定力を持った加害者側と、両方にいるのだろう。

この件、原発事故の件に関しては、無関心を除いて、すべての人が精神的疾患を患ったのだ。無関心の人も、精神的ダメージを受けたくないがために無関心を装っているのだ。

そして、この件に関しての結論としては、原発の安全性を高めていく、というやり方では解決できないだろうということだ。少なくとも明らかに、誰の目にも明らかに安全だろうということが理解できなければいけない。

原因を取り除くことができなければ、環境を変える、環境が変わってゆくということが、目に見えてはっきりしなければいけない。移住をするという選択はもちろんある。原発のない沖縄にでも行くしかない。

そうでもなければ、我々の精神疾患を治療していくには、少なくとも原発と放射能汚染の危険性をできる限り抑えていくということ、すなわち少なくともこれ以上、核燃料と核廃棄物を増やさないということ、そして、そのような方向にこの国の電力事情が変わってゆくことが「明らかに」分かるようになるということ、に尽きるだろう。

**********

それまで何年、何十年かかるだろう。それまで我々のこの精神疾患は続くのだ。大げさに言えば、この精神疾患を共有することが、日本人であることの基盤になるのかもしれない。国家や国民という共同幻想を持つことも、何かの主義や思想を持つことも、ある種の病気だとすれば、我々の原発疾患も、ある意識の共有、共感であるかもしれない。

このように考えてみると、逆に、「無関心」こそがこの国を成り立たせてきたということが分かってくる。いちいち悩まず考えず、無関心の間に世の中は勝手に進んでいく。無関心のためのいろいろな罠が張り巡らせてある。無関心こそが幸福の指標であるかのような時代だった。

そしていつの間にか、こんな事態になった。しかし、いちいち気にしてたら、精神的にも負担になるし、日々生活してゆくのも大変だ。気にした方がいいのか、気にしない方がいいのか。

このようなとき、我々が考えるのはいつも戦争なのだろう。なぜなら、無関心が人を見殺しにするからだ。

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追記あり
6月27日「6月20日の「原発と精神疾患」追記」
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by barcanes | 2011-06-20 23:44 | 日記 | Trackback | Comments(0)

夢を見るなら 夢を見せるなら

「夢を見るなら 夢を見せるなら」

夢を見るなら 夢を見せるなら
もっといい 夢を見たい
もっといい 夢を見せたい

人を騙すなら 人に騙されるなら
いい夢で騙したい
いい夢で騙されたい

前例など なにもない
過去の歴史も 参考にならない
それでも人は 前例のとおりに
過去の歴史を繰り返す

全て悪夢 あるいは
ほんの少しの良い夢と その他の悪い夢
人は少しの良い夢を前例にして 大事に繰り返し
その他の悪い夢をも 繰り返してしまう

もう一度 最初から
夢を見直したい
0から始めたい
0の地点を探し 0の地点に戻りたい

人類のはじまり 文明のはじまり
国家のはじまり お金のはじまり

革命 暴動 内戦 殺し合い
いずれにせよ はじまりには戻れない

現実の否定 悪夢の否定
人間の否定 人の生活の否定

人は
自分が死ぬのが怖くて 人を殺せないのではない
人を殺してしまうのが怖いから 自分を殺せないのだ

人を傷つけることが怖くなければ
自分を傷つけることなど なにも怖くない

自分が傷つくことが怖くなければ
人を傷つけることなど なにも怖くない

人は
死ななければ 死は分からないのだし
痛まなければ 痛みを知ることはできない

人は
とことん傷つくまで その本当の痛みを
知ることが できないのだろう
この 大バカ者めが

現実の肯定 悪夢の肯定
人間の肯定 人の生活の肯定

全てを肯定し 肯定し尽くしたとき
とうとう 痛みを知るのだろう
とことん 肯定し尽くして ようやく
痛みとともに 矛盾を知るのだろう

肯定とは 形を変えた 否定
否定を否定し
否定を否定する嘘をも否定する 肯定

それでも まだまだ
肯定し足りないという人もいる
しかし どうやら
現実の悪夢の行く末が
見えてきてしまったようだ

0には戻れないが 100を想像することはできる
我々の転回点は そこだ
0ではなく 100からはじめるのだ
我々の革命は 100からはじまる

そのとき 価値は逆転するだろう
トランプの 大貧民ゲームのように
持たないことが 持てることより 優先し
安定よりも
自然の変動に 身をまかせることになるだろう

我々は 長命よりも 短命をえらび
人生を 燃やし尽くすだろう
父なる光などを信じず
子供たちを太陽としよう

我々の暴動は 我々自身の人生に対する暴動だ
我々の革命は 我々自身の価値観に対する革命だ

お金持ちは 税金を払う動物として
天然記念物 あるいは 世界遺産
今まで蓄積した化石燃料のように
大事にその恵みを受け取ろう
今後 何十年か何百年か何千年か何万年かかけて
枯渇するまで消費する
我々は効率よりも 非効率を優先し
ゆっくり 年月をかけて 進んでいこう
人ひとりができる仕事は 少なくていい
一生にひとつ なにかを残せればいい
みんなが身の丈の貧乏・・・
その方が幸せに見えてくるような・・・

夢を見るなら 夢を見せるなら
もっといい 夢を見たい
もっといい 夢を見せたい

人を騙すなら 人に騙されるなら
いい夢で騙したい
いい夢で騙されたい

どのように 生きながらえるかでなく
どのように 消えてゆくかを考えて
死ぬまで 生きる
まったく効率の悪い
数値化され得ぬ 僕らの人生
分かることなんて
やっと ひとつぐらいでいいだろう
あとは死んだ後の 子供たちに 聞いてくれ

子供は誰でも 0からはじまる
いつだって 0の子供
それが唯一の光 
100の真っ暗闇 クソったれの暗黒から
まぶしすぎる 0の光に向かって
目をほそめ まぶたをとじる・・・

夢を見るなら 夢を見せるなら 
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by barcanes | 2011-06-19 22:43 | Trackback | Comments(0)

二日連続イベントでした

二日連続でイベント。二日続けて詩の朗読をした。土曜日は毎月恒例「Voices Inside」"Rainy Night in Fujisawa"~雨のソウル特集ということで、ちょうどいい天気の雨だった。ゲストDJに急遽カズマックスが参戦して、浅見さんとともに雨の歌謡曲にまで広がった。今月のゲスト間瀬さんがちょうど誕生日ということで、カヨちゃん、宮井さん、僕の3人がちょっとした朗読をやり、田尻が即興のソロピアノを弾いてくれた。それらを間瀬さんの選曲と交互にやる、という趣向で、それはすべて間瀬さん自ら誕生日のセルフ・プロデュースによる企てであった。さすがは、我らが間瀬P。

雨のテーマから外れて、僕は間瀬さんに贈る詩を3日かけて書いて、いつもドン引きだけど今回のはけっこう受けた。力作だったから喜んでもらえてよかった。「アクロスティック」というそうだが、最終的には辞書に遊んでもらうことになった。せっかくだから直筆で書いて贈った方がいいというアドバイスで、思わぬ漢字の勉強にもなった。言葉遊びのガタガタした隙間に、直情ではない、よじれた気持ちが伝われば、それはそれで詩情ともなるのだろう。

飛び入り参戦の大野さんもDJをやってくれ、二見さんはDJの最後の曲に、CCRの「Who'll Stop The Rain」をかけた。ずいぶん聞いてなかったけど、今にぴったりの曲だなと思った。

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翌、日曜は「至福の穴」という初めてのイベント。先週、急にやることになった。このタイトルでこれまで数回、不定期でイベントを続けてきたそうだ。「暴動出版」という名前で詩集も出している高橋君と、ずいぶん前にうちでライブをしたことがあるという牧島君を中心に、いろいろなメンバーが代わる代わる出演するという、当店の持ち寄りナイトみたいな企画だ。詩の朗読会というよりは演奏の方が多かったのだが、僕も自作の詩で参戦させてもらった。

20数名ほど集まってくれた、おそらくみんな30代前半と見受けられる年代、どうしたって今のこの社会状況がテーマとならざるを得ない。なにもない普段だったら、臭くて聞いてられないようなことかもしれなくても、みんながちゃんと耳を傾けて、この時代に対して、身の丈に合った対峙をしているように感じた。こんな時世だから、ということもあるが、言いたいことを言い、それを聞き合うということができる空気というのは、今までなかなかなかったことだと思う。

もっとも彼らは「詩を聞く」というようなことにも慣れているのかもしれない。それでも僕は、僕よりちょっと下の年頃の彼らを、少し頼もしく思えた。これからの世の中を作っていくのは、我々であり彼らなのだ。少なくとも、なにも知らずに生まれてきて当たり前のように重荷を背負うハメになる子供たちのことを考えれば、我々は我々の死後、どのような世界を残すかということまで考えていかなければならないのだ。

彼らの言葉の中に「死」や「否定」というようなにおいを感じた。彼らも悩みながら、他人の言葉にも耳を傾け、世の中の流れに対してどのように「否」を感じ、突きつけ、身を持ってそれを生きてゆくのか、誰もが「こうすればいいんじゃ!」と自信を持っては言えないし、「おれは知らねえ」とも言えないのだ。誰もが同じ列車の乗客なのだ。この暴走列車をどのように走らせてゆくのか、もうすぐ下車しようという死相の世代には、申し訳ないがもう任せてもいられないのだ。これからの子供たちのために、知恵を出すか、黙って金だけ置いてってくれ!

まあそれは大げさな言い方かもしれないけど、オレたちの昔懐かしい反抗心みたいなものを、上の世代に対するアンチ心を、もう一度再発見してもいいんじゃないかと思えた。詩やフォークや、ウッドストックやヒッピー文化みたいなものの真価がもう一度問われよう。オレたちはとにかく、暴走のスピードを落とすのだ。牧島君なんて、フォーク界から早期に農村に隠遁した岡林ノブヤスみたいだったし、松本アカツキ君の詩の朗読もオリジナルの雰囲気を持っていて説得力があった。高橋君の朗読とギター、ジャンベによるセッションもとても面白かった。

それに比べると僕のなんかは詩のマネゴトみたいなもので、とても勉強になった。そして僕の朗読もみんなちゃんと聞いてくれて、反応も良くて、やってよかった。どんな雰囲気になるか分からなかったけど、高橋君の暴動出版にちなんで、革命と子供のための詩を書いてみた。

とにかく、僕は彼らと同じ列車の乗客になれた気がして嬉しかった。イベント後、SF小説家の卵という斎藤君と同人誌をやろうという話で盛り上がったが、彼は憶えているかなあ?高橋君は、この他にも別の詩の朗読会のアイデアがあるそうなので、またうちで詩の会をやることになるかもしれない。詩を書いたり読んだり聞いたり、そんなことを真剣にやれるようなこの時代の雰囲気も悪いもんじゃないかもしれない。みんながやりたいことに真剣になり、それが自分の人生に真剣になることと同義になる。危機感がなくても、やってる人はやっているのだが、この危機感がなにかを生む力を後押ししてくれていることも確かだろう。

また今後にも期待。

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深夜に"Big Man"クラレンス・クレモンズの訃報を知る。"Born To Run"は決して「明日なき暴走」などではない。近年のライブではかなりテンポが落ちて、ずいぶんゆっくりのrunになってた。なんにせよ彼らはrunし続けたのだ。そして"Tramps like us"の"us"はオレだけじゃなく「我々」なのだ。文中、「同じ列車の乗客」とは"Human Touch"中 の"We're all riders on this train"という詞より。スプリングスティーンの曲に出てくる"we"とか"us"が僕は好きだ。"Born To Run"のジャケットそのままに、ビッグ・マンがその「我々」の象徴だった。
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by barcanes | 2011-06-19 20:30 | 日記 | Trackback | Comments(0)

詩の朗読会「至福の穴」

6月19日(日)18時より。

先日の「Potluckナイト」に出演して詩の朗読をしてくれた高橋君が、急遽イベントをやりたいと言ってくれたので、急なんですがやります。僕も参戦させてくれるそうなので、頑張ってなにか書きます!

「至福の穴」というタイトルで、既に5回ほど開催しているそうです。以下、高橋君からの紹介文です。興味ある方はぜひ参加、ご観覧ください!

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詩の朗読会至福の穴ですが今回は音楽多め。藤沢のバー、ケインズでやります。オープンは17時。(18時スタート)チャージフリー、ドネーションスタイル。 出演は 高橋建次、PIGS IN A STRAWHOUSE(牧島竜也、上田真寿夫)、菊池真人、村上聡、松本暁 他

詩人が少ないので朗読したい人参加して下さい。

牧島竜也は今回歌だけ。田植えを終えて飛騨から藤沢へ。
シンガーソングライター菊池真人初ライブ!ローマから来日中のサックス村上聡、千葉からマンドリン上田さん、東京から詩人松本暁を迎えます。
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by barcanes | 2011-06-19 01:11 | イベント | Trackback | Comments(0)

MSK48に捧げる詩

M・S・Kn・J に捧げる詩

まずは 昔日の 倦惰の雨降る 時候
丸めた 背中 謙抑な ジェントルマン
ままならぬ 切実 堅忍不抜(けんにんふばつ)の 叙情
まさにそんな 切ない心 見当はずれにも 重々承知

またある日 盛況に 喧々囂々(けんけんごうごう) 饒舌な夜 
まあいいさ せっかくの 健闘むなしく
12時のシンデレラは まぶたが重くなる 刹那
倦怠感が じわじわと まどろんで、ここは 聖域
喧騒とともに 熟睡、それは 真夜中の セレモニー
健康的な 自暴自棄 満悦顔を 静観、その後
謙虚に 自嘲する MSKnJ 

曲がり道
積年の 研究 地道に 邁進 
世界を 顕微鏡で覗く 自由な 迷(まよ)い子
精彩に彩る 鍵盤は 自在に まばゆい 旋律
研鑽された Gコードは まっさらに 誠実
検証された ジュークボックス
真新しい 洗練を 顕示する MSKnJ

待ったなし
精鋭たる 懸案の 地元の若手を 巻き込んで
先生のように 懸命の 尽力
まさに 碩学(せきがく)の 研修、あるいは 実習
まことに 先見の明 献身的な 授業、そして
マイクを手に 世話役を 兼務する 実力 
まして セッションでは
牽制して じっと見つめる まなざし
精確な 建設的 実行力
まめやかに 戦況を見つめ
賢明なる 陣頭指揮の MSKnJ
 
ますます 世界は 険悪な 時代
巻き返す 精気に 捲土重来(けんどちょうらい)
時間は まもなく 切迫
謙遜してる 事態じゃないぞ MSKnJ
埋没しかけた センスは 顕在化して 磁場となり
舞い戻る 戦友と 剣客たち
人望に 招かれ 勢ぞろい
研磨を重ねた 人力の音楽
まざまざとここに 健在 如才(じょさい)なし!

ままよ
戦線は 険難でも
じりじりと まっすぐに 先進あるのみ
健闘の、期は 熟した 

行け!MSKnJ、四十ウン歳、誕生日に、乾杯。

(朗読後に多少推敲加筆訂正&イニシャライズしました。)
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by barcanes | 2011-06-18 23:44 | Trackback | Comments(0)

「Voices Inside」雨特集!

6/18(土)「Voices Inside」
今月のテーマ:「Rainy Night in Fujisawa 雨のソウル」
Disc Jockey:二見潤
ゲスト:間瀬"バースデー"憲冶、浅見"ダメオトコNo.1"卓也
9pm頃より

当日は間瀬さんの誕生日ということで、間瀬さんバースデー・コーナーも用意されています。私も拙い詩を読ませてもらう予定です。

毎度、Ustream中継します。←左のリンクをクリックしてね!
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by barcanes | 2011-06-18 01:21 | イベント | Trackback | Comments(0)

新しい風

都内で行われた、あるライブイベントを見てきた。そこでこんな歌が歌われた。

新しい風が 東北の方から吹いてくる

私はそのとき、なにか爽快な気分になったのだ、一瞬だけ。だって東北からの風には、放射性物質だって乗ってくるじゃないか。そんなことは分かってる。それでも、これは今まで浴びたことのない、新しい風なんだ。初めて経験する、危険な風かもしれなくても、新しいことには違いがない。そこに、なにか新しいものを感じたいんだと思う。汚染物質と共に運ばれてくる、なにか新しい、フレッシュなものを。それはなんだろう。福島の人たちがそれどころではないのは分かってるさ。でも、その中から生まれてくる、なにか新しいものを探し出したいじゃないか。

簡単に言ってしまえば、それは新しい価値観とかいったことだろう。なにか、人生が変わってしまうような、世界がそれまでとは違って見えてくるような。それはミュージシャンが14歳で初めてギターでGコードを弾き鳴らした瞬間、あるいはClashの"London Calling"を聞いた瞬間に、自分の中でなにか新しい価値観が生まれたのと同じように。

東北からの風に吹かれて、汚染物質も共に浴びて、私たちもなにかが変わったのだ。生活もお金の使い方も、政治や経済についての見え方も、国や世界の成り立ちについての裏の臭いの嗅ぎ方も、自分の死や人生への対し方も、そしてなにか大切なことのために生きるのだということも、なにもかもが少しずつ変わっていったのだ。

別に、東北の人たちにそれを求めてるってわけじゃない。だけど、少なくとも僕らは、チャリティーの高いグッヅを買うことにもあまりためらわなくなったし、自分の少ない金やちょっとした行動が、自分のためであることと同時に、誰かのなにかの役に立つはずだ、ということを信じるようになった。東北からの風に吹かれた誰もが放射性物質を少なからず浴びて、なにかを諦め、その分ちょっとばかり自分の人生に真剣になった。

東北からの風の感じた多くのオプティミストが、絶望感と共に、このピンチをチャンスに変えられないだろうかと思った。東北からの風の臭いを嗅いだ全てのペシミストは、このままなにかが変わらなければ、絶対にヤバいと思った。しかしいずれにせよこの風は、古臭い風でもカビ臭い湿った風でもなく、こんな風は浴びたことがない、新しい風なのだ。そこに夢や希望を感じてもいいはずなんだ。

ひとつのことを諦めなかった男

同じ曲でそういうフレーズもあった。それは新しい風がどんな風だろうと、そこに夢や希望を持ち続けることができる、そういうことを諦めない人間なんじゃないだろうか。「やると言ったら最後までやる。」いつかテレビのドキュメンタリーで聞いた覚えのあるような、被災した漁師町の網元のオヤジみたいな言葉だった。

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今回のライブは、あるファッション・ブランドが絡んでのチャリティー・イベントになっていた。「世界が抱える問題に対して、ファッションができること」という理想を掲げて。なにが善いか悪いか分からない時代、言葉もなにも信じられるものがない今、我々に残されているのは自分の直感や体感したものしかないのかもしれない。

なんかいいな、と思うもの。流行やモードによらずに、カッコいいとかカワイイとか美しいというそれぞれの美意識。そういうことに価値を感じられる価値観。力強さやシンプルさ、オリジナルであること、素朴さ正直さ、ジョークや明るさ、悲しさや暗さ、ポップだったり楽しかったり、ファッションと音楽は似ているところがある。

「芸術が舵を取る」なんていう言葉もあった。

以前、ネットでこんなツブヤキを拾ったことがある。「多分、ジャーナリストなんかよりアーティストたちの方がこの国のかたちとかこれから我々がすべきこととかしっかり見えてる。これからは文化芸術アートが戦後以降、最も注目される時代になる。(5/17のtwitterより)」言わずもがな、政治もマスコミもほとんど飼われてしまっている。資本主義を信じるなら、孫さんみたいな人に利益主導で世の中を善くしてもらいたいけど、経済は人間のことなんかより金で金を増やすことしか考えられない。そして信心に関しては、ひとつの宗教を信じることの危険性を避けることを、戦後の日本人は最も気にしてきた。

そうして我々は、なにが善いいのか悪いのかを判断できなくなり、言葉は全く信じられなくなった。我々はもはや自分の体験や直感や想像力を駆使して、信じられるのかどうかを判断するしかない。常識や慣習や、親や先生の言うことだって信じられない。でも誰だって、誰か人間を信じたいんだ。

アートは、言葉の論理的な冷徹さを越えて、感覚に訴えてくる。誠意あるアーティストは、人と人が出会い、つながっていくことを個と個として行い、自分の感覚を出してゆくことに責任を持っている。全国を旅して見て回り、多くの人たちと知り合う。言葉や論議ではなく心で会話してゆく。もちろん偏ることも、間違っていることもあるだろう。だけどそこに嘘があるのかどうかを判断するのは、受け取る側、選ぶ側の責任にかかっているのだ。

思想でも主義でも、もちろん宗教でもない。派閥でも人脈でも経歴でもない。我々は心で、魂で、感性で受け取り判断する。人間と人間の、人間と自然の、具体的なつながりを真実として認めて、その上に想像力や抽象的な思考がある。なにひとつ、同じものはなく、誰一人、同じ人間はいないのだ。

行動力のある人間、冷静に考える人間、まわりをまとめる人間、話を聞く人間、作り出す人間、使うことのうまい人間、疑問を大切にする人間、金を持ってる人間、貧乏だけど時間はある人間、たくさん知ってる人間、バカだけどやけに勘のいい人間、みんなで楽しくやる人間、そして孤独を愛する人間、人それぞれ違っていいのだ。違う人間が、個人として考えて生きていく。それがこれからの我々の時代のテーマの基本になっていくのだと思う。

"Alone Together"なんて言ってたけどね。当たり前のようなことなんだけどね。そういうことなんだろう。
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by barcanes | 2011-06-14 21:36 | 日記 | Trackback | Comments(0)