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新しい決まり

原発事故の事態収束まで、長期化するだろうという声明。その間ずっと漏れ続けるということだ。東電の一時国有化というようなことも言われ始めた。原子力部門だけ切り離して国有化し、いずれ原発の廃止か存続かを決めたらいいという考えや、送電の部分だけ国有化するというのもある。また、今の環境問題の指標はCO2ばかり気にするが、これは原発を容認するためのカラクリであって、CO2の排出権と同様に放射性物質の排出権(あるいはそのリスク)を設定するべきだ、というのもあった。

世の中は、いい決まりがあればうまくいくというものでもない。何かをうまくいかせるための都合の良い決まりが、別の良い顔をしている、なんてことを考えるのが人間は好きだ。僕にもあなたにも都合の良いことが、悪いことある?なんていう戯言じみたことを人間はよく言う。僕とあなたで完結していればいいのだが、安売りの薄利多売で、売る方も買う方も両方とも良いことですね、と言うときには生産の現場の人件費が抜け落ちていたりする。

世の中に良い仕組みや良い決まりなど、ないのだろう。利益がなければ人は動かないと言われる。私利がなければ人は生きていけないし、一人では生きていけないから、僕とあなたは手を組む。戦争や奪い合いがないと仮定するなら、僕とあなたは世界とつながり、価値の源泉である自然の産出力と化石燃料を分け合って暮らしてゆく。それ以上の私利を我々はどこから得ればいいのだろうか。考えられないような額の借金をして、永遠の未来から利益を得る。化石燃料のように歴史の中で溜めこまれた金持ちの財産を喰い潰す。

世の中に決まりがなければ、悪がはびこるような考えもあるが、決まりがあるから悪がはびこるのだとも言える。なぜなら、決まりというのは何かを止めるからだ。いつの時代にも確実な割合で存在する悪を止めるためであるのと同時に、思考を止め、動きを止め、流通を止める。流動する悪を止めようとすると同時に、固定化する悪が固まってゆく。悪は流動させた方がいいのか固定化させた方がいいのか、それは分からないが、悪は確実に存在するし、むしろ必要なのだ。

我々は善悪で決まりを作ってはいけない。決定的な決まりなんてきっとない。どんな決まりの中でも人は動こうとし、自由を求める。決まりがあるからこそ自由が生まれるとも言える。良い決まりがあるとすれば、そのことで自由が生まれるような決まりだ。舞踊の型や音楽の楽典やメロディーのような。しかし型やスタイルにとらわれて形骸化して死んでいってしまうものもある。

我々にとって絶対的なルールというのは、生まれて死ぬまで、善い人も悪い人でも、どんな人でも生きなければいけない、というものだけだ。戦争や軍備もこのルールに抵触し続けてきたが、原発や放射能は、これから成長する子供やこれから生まれてくる生命の「生きる権利」に、あまりにも抵触し過ぎている、ということが今回よく分かった。その上で、我々は新しい決まりを作っていかなければいけない。

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今日は定休日。春らしい陽気になってきたので、久しぶりに鎌倉の天園の軽いハイキングコースを歩いた。コケの緑色した岩がたくさんあって僕は好きなのだが、コケとかシダとか、小さい頃からなんだか好きだったのは、枯れたかと思ってもまた生き返ったりして、そういう慎ましくも粘っこいたくましさが、きっと好きだったのだろう。

今日で3月も終わり。今月はどこも経営は厳しかったろう。そのわりに出費がとても多かった。停電がないからというわけでもないが、夜は久しぶりに外出せずにおとなしくしていた。
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by barcanes | 2011-03-31 21:05 | 日記 | Trackback | Comments(0)

憤りの矛先

福島の第2原発からも白煙。フランスの原発関連会社アレバのCEOが来日。翌日にはサルコジ大統領も来日するらしい。原発大国であるフランスの力を借りることは、今後どのような進展を見せるのだろうか。良くも悪くも。

「ダチョウの平和」という言葉があるそうだ。頭隠して尻隠さず、といったところだろうか。頭を砂の中に隠して、見たくないものをシャットアウトすることで、心の平静を取り戻すということらしい。余計な不安を煽るな、という意見もそうだし、政府のご意見番に親しい学者を揃えるのもそうだろう。身内を固めるだけでなく、反対意見を持っている学者や、いろいろな見識を持っている専門家の意見を聞かなければいけない。それは我々のような庶民のレベルでもそうで、いろいろな意見を聞いてみなければ分からないことがたくさんある。僕のような小さい店でも、それはそうなのだ。

今日は全く静かな夜だった。たまに飲みに来てくれるヤツがいて、人がたくさんいるときはほとんど喋らずに帰ってゆくのだけど、半年に一回ぐらいは他に誰もいないような夜があって、そういうときは結構とことん話す。彼も変わり者だが熱いところを秘めているヤツで、震災や原発のことについていろいろ話し合っていた。

そこにとある姉さんがやってきて、酔って寝てるのかと思ったら突然口を挟んできて、「あんたら、お金も人も集められないくせに、偉そうなこと言ってんな!」とのたもうた。「わたしはこれだけやっているのに、あんたはなにもしてないじゃないか!」と噛みついてきた。確かにその姉さんは衣服を段ボール10箱ほど集めて、宅急便で被災地の知り合いに送ったそうだ。他で何かあったのかもしれないが、どこか憤っていた。

でも僕もなんかムカついてきたので、「人に唾を吐けば自分に返ってくるよ」と言ってやった。姉さんは静かになっていつの間にか寝てしまった。横で見ていた先述の彼は、「女の人らしい意見ですね」と冷静に言った。我々は抽象的な話をしていたのだろう。今すぐではない、先の話もしていた。それに比べたら女性は、今すぐの、この場所の、具体的な、感情的なものを求めるだろう。そして解決策を示して行動してくれる、指導力や影響力のある男性を求めるかもしれない。

我々は組織として動けるようなタイプではないので、個人として独立人として、自分の責任の範囲でしか動けない。その弱さや小ささが情けないと思うときもある。そのかわりに、言いたいことを言い、やりたいことをやれるという自由を持っている。そして、言いたいことを言っていい場所を作ったり、やりたいことをやっていいんだとみんなに言うことができる。個人の力は小さい。しかし組織や集団の強さや力の大きさよりも、その怖さ不気味さよりもマシなこともある。

こういうときだから、みんな団結とか、ひとつになろう、とかいうスローガンも大切なのは分かる。そういう一体感が気持ちよく、なにかできなかったことができるような気分になれる人にとっては、そういう標語も役に立つのだろう。しかし、こういうときだからこそ、そのような一体感に嫌気を感じる種類の人間もいるのだし、いなきゃいけない。そして、それは非常に大事なことだと、僕は思っている。

どんな時代にも主流でない人がいなければいけない。戦争の時代にも、弾圧されても非難されても主流に流されない人たちがいた。時に規律や常識を破ってでも、自分の感覚ややり方を貫いた人たちがいた。我々はそこまでの覚悟もたくましさもないかもしれないけど、そういう人たちにこそ勇気を感じてきたのだ。僕もヒーローやリーダーは嫌いじゃないし、問題を一発で解決に導いてくれるようなことを求めているかもしれない。けれど、そこに必ず付きまとう危険や、集団性ならではの差別があることを忘れてはならない。

しかし、この無力感とそれに対する憤りが、みんなの中にふつふつと沸いてきている。その憤りの矛先は当然、原発とそれにまつわる政治や経済のしくみと、それを許してきた社会に向けられるだろう。反原発の小さなデモも行われているようだが、今はまだ、被災地の救援が落ち着くまでは時期尚早という声もあり、冷ややかな感じだ。確かにそうだろう。でも、無意味かもしれないデモみたいなことを続けている人が僕は嫌いじゃないので、集団行動は得意じゃないけど応援したいな。我々民衆にとって、デモというのは立派な民主的手段であるし、何万人というような規模であれば、必ず大きな力になると思う。

各地の知事選も近い。原発やエネルギー政策についてどういう立場をとるのかが注目されるべきだと思うが、今回は論点も絞られていないし、選択肢もないだろう。今はまだ大騒ぎする時ではないかもしれない。でも「今すぐ止めなければ」という思いが空回りし、世の中はどうせなにも変わらないのだという諦めが支配するのは避けたい。これは右とか左とか、政争の問題ではないのだ。みんなが思っている普通の感覚の問題なんだ。

どのようなやり方が良いのだろう。いずれにせよ、長い年月のかかる、長い戦いになるのだろう。これは申し訳ないが爺さん方にはさっさと身を引いていただこう。我々の世代の宿題なのだ。
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by barcanes | 2011-03-30 22:37 | 日記 | Trackback | Comments(0)

プルトニウムと不安

昨夜遅くに、とうとうプルトニウムが検出されたというニュース。放射能の汚染水が大量にあふれだしている。地下の排水溝もいっぱいで、海上のタンカーなどの案も出ているが、いずれも試されたこととのない手法だという。ますます時間がかかりそうだ。その間にもどんどん排水が漏れていく。陸上や大気中の汚染に比べれば、広大な海で拡散されていくということで、きっと黙認されることになるのだろう。

プルトニウムが出たということで、今まで出てこなかったデータがこれから徐々に小出しに出てくるのだろうなという気がする。プルトニウムの半減期は何万年というスパンのものだ。少しずつ危険に慣れ、恐怖に慣れ、不安に慣れ、恐ろしいデータが出ても、大して気にならなくなる。我々はあまり気にせず、むしろ知らないふりをして、自分たちの生活を守り経済を回す。被災地は被災地に、原発事故は現場の人たちに任せる以外に、我々ができることは少しの募金と少しの我慢をして、あとは普段通りの生活を心がけるだけだ。危険だと今さら声を上げても、不安になっても仕方がない、というわけだ。諦めと開き直りで、人は生きるしかないのだろうか。

風評被害にしても、人々が恐れているものは「危険」ではなく「不安」なのだということがよく分かる。不安に慣れてしまえば、危険なものでも大丈夫なのだ。それが危険なものだと知らなければ大丈夫なのだ。いま安心さえできれば、それが危険であろうと、未来に危険があろうと、人はそれを見過ごしてしまう。危険性を突きつけることを、今が安心なのに不安を煽ることだと言って、人はとても毛嫌いする。それが人間の心理なのだろう。

それは仕方のないことなのだろうか。同じ心理が原発の建設や存続を許し、事故の危険を見過ごし先延ばしにしてきたし、そして事故が起きた後も事態の収束を見守り、なんとかなるはずだと希望を現場に託し、危険であることに慣れ、なにか他のことをすることで不安を軽減しようとする。

簡単に言ってしまえば、不安を煽られなければ不安にならないような人は、気楽なものだ。そういう人が不安を煽るようなことをとても嫌がる。何かをしていないと気が済まないから、自粛という行動をしたり、不買という行動をしたりもする。そして僕は、こんなクソったれな文章を書いている。

みんなが憤っている。憤っても仕方ないから、なにかをしようとしてるけど、劇的にものごとが良くなることなんてないし、遠く現場から離れたところでは、なにか一つずつでも一歩ずつでも、何かが変わってゆく現実的な感触が得られない。平静を保ちつつ、どこか憤っている。自分のできることとできないことの間で、みんなが揺れている。だからせめて、この憤りを持ち続けていたいと思う。

そしてこの憤りは、きっと震災に始まったことではなくて、ずっと昔からあったものなのだろう。

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夜は10時までの停電の予定だったので、sausalitoのジョージさんの発案で、今回は4組のアーティストが5店舗を順番に回っていって、停電中のお店を盛り上げようという「Candle Night Live」という企画の一回目。停電は中止になったが、予定通り行った。当店は早い時間にお客さんがほとんどいないので、アーティストたちには非常に申し訳なかった。イベントが終わるような時間になってから人が集まり出し、ワイワイ盛り上がった。

確かに停電中の暗闇の方が盛り上がるかもしれないが、これは夏に来るであろう本格的な停電に向けた企画なのだ。今から準備しておこうというジョージさんの先を見据えたアイデアである。ローカルのミュージシャンたちが、今まで以上に生の音楽を地元の人たちに届けるチャンスでもあると思う。音楽の街、藤沢を以前より一層盛り上げてほしい。
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by barcanes | 2011-03-29 20:41 | 日記 | Trackback | Comments(0)

「熱さ」の適材適所

今日は恩師の現場復帰の辞令が出たという明るいニュース。社会の中で適材適所というのは難しいのだろうが、教育の現場にいたいという熱心な教師こそが、現場の最前線にいてほしい。命を張れる場所でこそ人は輝ける。

DOMMUNEのフィッシュマンズ+の生中継は視聴者が2万人を越えていた。今日はその裏で今西太一さんが藤沢からUSTREAM中継をしていたし、レディオ湘南では「Sandfish Cafe」が拡大版で、藤沢の工場跡地の広大な敷地に仮設住宅を作って、被災した町ごと来てもらったりしたらいいんじゃないか、なんていう話をしていた。そうすればボランティアをしたい人もしやすくなる。いいアイデアだ。一概に視聴者の数ではないな。

今日は遅くなってから、たまに来てくれる、人命救助の仕事をしているヤツと、今回被災地にも行ってきたというヤツと、若手二人を交えて話が盛り上がった。カウンターは男ばかりで、みなそれぞれに思うところ、言いたいことがあったのだ。現場の惨状や、彼らの熱い気持ちを聞いて、我々も熱い話になった。確かにあの、原発へのヘリからの散水作戦の頃には、我々は絶望的な気持ちになった。しかしそれでも、命を賭してでも危険な現場に駆けつけたいという気持ちを持った若者たちがいて、それに対して、特攻隊のような無駄な命の捨て方をしちゃいけないと、そのようなヒロイズムに陥ってしまってはいけないという意見もあった。

そのような熱さと冷静さの間にあって、私は冷めた諦めの中の熱さより、熱さの中にある冷静さの肩を持ちたかった。人それぞれ立場や役割が違い、それぞれの制約や限界、指揮系統や責任があり、その中で自分の役目を果たすのに、熱さがなければ、それは受け身の、指示や命令に従うだけのものになってしまう。主観がなければ客観はない。客観だけでは何もできないのだ。それは人それぞれの熱さなのだ。「今時の若者かもしれないけど、僕らみたいのもいます!」と彼らは胸を張った。張ったけれども、彼らなりに冷ややかな態度を浴びたり、強烈な惨状に胸を痛めていることだろう。僕は彼らの熱さを、ささやかながら応援したい。

そして、我々もそれぞれに気にしていることの優先順位が違う。ある音楽レーベル主は、被災地の復興や被災した人たちへの支援が最優先だと言う。あるミュージシャン氏は被災した人、ショックを受けた人の心のケアだと言った。私は先の希望を見据えたいと思う。まずは自分の生活だという人もいるだろうし、行動しなければ気が済まないという人もいる。被災してなくてもショックで立ち直れないという人もいる。募金しかできないという人もいる。

またマスコミの報道についても、不安をかき立てるようなことを言うべきではない、という人もいるし、悲惨な映像ばかり映すべきじゃないという人もいる。逆に絶望的な情報でもしっかり出すべきだ、テレビには映らないもっと悲惨な状況も出すべきだという意見もある。どれがいいのか分からない。日本のマスコミには遺体と自衛隊は映らない、と言われるが、確かに海外のメディアには被災地や原発事故現場の見たことのない写真がたくさん出ている。

どうしたって人は見たいものしか見たくないのだし、見えないのだ。選びたいものを選び、やりたいことをする。強制ではなく、やりたいことが適材適所でうまく分担され、何もできない人は金を出す。そのようにうまくことが運ぶことを願うしかない。誰も批判できない。自分にはこれしかできない、という自分の小ささをさらけ出してやるしかない。みんなが自分の範囲でしか生きられないという、小さき者なのだ。たとえ自分勝手な人でも、小さいことを恥ずかしがらずにさらけ出して、精一杯やるしかないのだ。

小さいことでも少額でも、誰かの、何かの役に立つかもしれないということは、本当に誰かの、何かの役に立つかどうかということよりも、その人自身を支える励みになる、ということでもある。誰かがいるから、自分が存在するのだ。
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by barcanes | 2011-03-28 21:39 | 日記 | Trackback | Comments(0)

Blowin' in the Wind

テレビでは放射能漏れのニュースが短い時間で済まされるようになったが、原発内の冷却水、海水、土壌と、日々数値も大きくなっている。ニュースが短い分、深刻さは日々増しているように見える。この辺りの人々はすっかり日々の暮らしを取り戻している。僕もいつの間にか食欲が戻り、だらだらとした毎日に戻りつつある。政府の「ただちに健康に害はない」「安心」という言葉が、信じるも信じないもなく、スポーツ新聞の芸能ネタと同じように、ただ宙に浮かんで風に吹かれている。悪く言えば現実感が失せ、日常に麻痺し始めている。よく言えば、絶望感が日常に染み込んで、何もなかったようにふるまい始めている。同じことか。

報道でよく出てくる原子力関係機関のおさらいと、気になった電力政策のメモ。詳細に責任は持てないので、興味ある人は調べてみてください。

「原子力保安院」は経済産業省(元・通産省)、「原子力委員会」と「原子力安全委員会」は共に内閣府(元・科学技術庁)。「原子力委員会」は原子力を推進する側、「安全委員会」はそれに対して規制する側。その二つに対応するのが大変なので、民間企業である電力会社の窓口となる「保安院」が作られ、「原子力委員会」と「安全委員会」より優位に立っている、ということらしい。

電力会社は法律によって利益率が3.5%と決められており、利益を増やすためには経費を多くすればいい。そのことが無駄な施設を作らせることになる。また原発を作ることの優遇処置がとられている。

今回の事故に際して、国から莫大な金が東電に投じられることになる。もちろんこのお金は税金であり、国民のお金である。そこで政府がお金を出す代わりに、東電から「担保」をとるべきだというアイデアがあり、興味を持った。電力会社が持っている発電、送電、配電という機能のうち、送電の部分を国のものとし、公共財とするという契約をとるべき、というものだ。現在、我々は発電は自由にできるが、送電に関しては東電を介さなくてはいけないことになっている、ということだ。例えば自家発電をしても、東電を介さないと隣近所にも電気を分けてあげることができない。そこを自由化するというもの。

そのことの是非はもちろん、風力発電や地熱発電などの代替エネルギーや、いろいろなアイデアを持っている人がいるので、どんどん出していって具現化できるかどうか検討していけばいいと思う。そういうことが我々の希望になる。希望が人々を動かし、経済を動かすのだ。
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by barcanes | 2011-03-27 21:12 | 日記 | Trackback | Comments(0)

電力の希望

この週末も計画停電が行われないことになり、平日も夜だけとか一部だけとか、少なくなってきた。東電の努力で、電力の調達や配分がうまくいくようになったのかもしれない。しかし河野太郎のブログでこんな発言もあった。大口の電力需要契約者には電力供給量の危機があったときにすぐに対応するかわりに料金を割り引きする、という契約があるらしい。この割引契約にも段階があるそうだが、そこは東電の「民間企業」というプライバシーによって、個別の契約に関しては公開されていない、というもの。

我々個人契約者には、直前の停電や節電を呼びかけても何の割引もないし、さらに電気料金値上げも検討されている。まあそのことに文句を言うのは置いといて、要するに東電は電力需要に対して供給量をある程度コントロールすることができるのだということだ。あるいはその需要の設定さえコントロールできるのだろう、とも思えてくる。

我々小口の家庭の節電などたかが知れていることは誰しも感じていることだろう。実際は夕方の晩飯時の電力消費のピークの時間帯を除けば、発電した電力は余ってしまうのだから、むしろガンガン使って電気代をたくさん払った方がいいのだろう。特に我々夜の商売は、深夜についてはほとんど節電する効果がない。むしろ節電を経費削減の言い訳に使えるぐらいである。

要するにピークをずらせばいいので、家庭の電力消費が多い時間帯には大口の企業の消費を減らし、夏の猛暑の時間帯は止められる工場を止め、夜間に操業するなどするしかない。東京にいる必要のない人は行かないようにすればいいし、冷房が必要な人は涼しい高原にでもバカンスに出ればいい。そんなことはできる人とできない人がいるのは分かってる。でも人やモノが一局集中し、みんなが同じ時間割で生活をするから消費が偏るのだから、なるべく散らせればいい。僕の周りには、そもそも世の中からズレている人が多いから、停電などはむしろ楽しんで、夏の暑さもアイデアを出し合って、なんとか乗り切っていけることだろう。

今はまだ原発の危機を乗り切っていないし、東電や電力政策について責任や問題を問うことや、今後どうしてゆくかについて話し合うのはまだ早いという意見もある。しかし我々は今まで知らなかったいろいろなことを知ってしまったわけだし、今後について考え直す最高の機会でもあるだろう。この機会を逃したら、我々は何十年か経ってジジイになったときに、「あのとき変えておけばよかった」と必ず後悔することになるだろう。

放射能の影響は僕らが生きてる限り続いていくのだろう。我々が死んだ後の世代に残せるものは、汚れたこの世界の他になにがあるのだろう。子供や作品をこの世に残せる人と違って、特になにも残せそうにない人たちは原発を止め、なくすことを自分の生き甲斐にしたらいいんじゃないだろうか。これはきっと僕らの世代の仕事、使命になるのだと思う。

原発ありきで今の日本を作ってきた世代がいるのは、残念だが仕方がない。そういう時代だったのだ。戦後、元警察官僚だった正力松太郎(初代の電子力委員長にもなった)が読売の労働運動を抑え、貧乏を救済して日本の共産化を防ぐために原子力の「平和利用」ということを民間レベルで進めてきたというドキュメントを見た。当時、原子力は軍事利用と平和利用という二者択一しかなく、共産化か資本主義か、右か左か、という選択肢にすべてが集約され世論誘導されてきたのだ。軍事利用に反対であれば、すなわち委細問わず平和利用に賛成ということになってしまうのだろう。典型的な民主主義の意思決定プロセスだ。

原発の問題はもはや、右や左に分かれて政争の具にしてはならない。右も左もない。あえて言うなら、真ん中と端っこ。今まで通りのやり方でいきたい人たちと、変化を甘んじて、あるいは喜んで受け入れる人たちだ。それはまだ保守と革新の構図かもしれない。しかし、変化は確実に起きてしまったのだ。それでも変化を受け入れたくない人、変化に目をつぶり、見ないことにしたい人、世界はなにも変わっていないと思いたい人が、世の中の真ん中にいる。

一方、原発には疑問を持っていたけど、やはり原発がなければ世の中がうまく回らないのだろうな、と考えていた人たちがたくさんいたはずだ。震災と停電で、日本の産業は世界との競争力を一層落としてしまうだろうし、電気をガンガン使って経済をガンガン回して景気を良くしていかないと、世の中がうまくいかないという意見も分かるが、電気をガンガン使っても景気が良くなるとは限らない。多少の停電があっても、無駄遣いをしなくても、ものの流通が減ったり値段が上がっても、我々はそれなりの我慢をして生きていかなくてはならないということが分かったし、大昔からそうして生きてきたのだ。原発が止まっても世の中は回っていくのだ、と気づいた多くの人が、世の中の真ん中から端っこに出ればいい。

原発がなければ世の中がうまくいかない、ということが当たり前のように信じ込まされていたのは、ちょうど天動説が当たり前の頃に地動説を唱え始めた人たちの時代と似ているような気がする。ガリレオが「それでも地球は回っている」と本当に言ったのか分からないが、少なくとも現代に地動説を唱える人はいない。その時代の常識は、神話だったのだ。現代に当たり前のことが、当時は異端であり罪であった。そして現代に当たり前と思われていることが、未来には間違いだと分かることもあるだろう。何百年か経った後に、「その時代には原発という神話があったのだ」という時代がきっと来るだろう。来るに違いない。それが我々の今持てる、唯一の希望だ。

原発の危機も、被災地の窮状も乗り越えられていない今だからこそ、このような希望が必要なのだ。もはや我々が生きている間には採算も評価も結果も出ないかもしれないが、我々が死んでずっと後の世代になって分かることもあるだろう。我々の多くはそのような、未来の死者の視点を持っていると思う。しかし生きてる間の評価も欲するものだし、その前に自分が生きていかなければいけない。その狭間で、我々は苦悩しながらできることをしていくしかないのだろう。

でもきっと、絶望の中でこそ希望が輝き、死者の視点からこそ生が光るのだ。今だからこそ見える仄かな光を忘れずにいたい。そして、電力政策と東電の支配体制の今後の動きに注目していこう。
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by barcanes | 2011-03-26 20:52 | 日記 | Trackback | Comments(0)

正しさ

原発から30キロ圏内の「屋内待避」から「自主避難」へと政府の対応が変わり、今後「避難指示」になる可能性もあると声明。食品や水の放射能汚染に関して、NHKのニュースでは、「正しい知識、正しい情報、正しい判断、正しい対応」などと呼びかけている。今、我々にとっての「正しさ」とはなんだろう。そしてそもそも、我々にとっての「正しさ」とはいったい何だったのだろう。

民間企業がある設備の設計をし、国の許認可を得る。その後その設計に不備が見つかったとする。しかし、国が一度認めてしまったものは「正しい」ので、設計の変更は認められない。その変更を強行するには、民間の担当者の「責任」で「勝手」にやらなければならない。このような「正しさ」がある。

正しさには常に間違いの可能性があり、間違いを認め正しさを更新していかなければならない。正しさとは流動的なものだ。文化や時代によっても変わる。しかし正しさを求める人がいる限り、正しさは暫定的に定められる。それを権威と呼ぶのではないか。

世の中には間違いはあるが、絶対的に正しいということはない。科学的な真理でさえ、複雑な状況では精微には成り立たない。この世の中で100%正しいことは、人はいつか必ず死ぬということぐらいだ。死ぬまで生きるということだけが、いつでも正しいのだ。

今の我々の確実性のない状況の中で「正しさ」を呼びかけることとは、権威を叫ぶことなのだ。30キロ圏内に限って対応を変えてゆく、あるいはその圏域のキロ数を変える変えないというのは、もちろんその圏内の被災者の管理をしやすくするというのもあるけれど、正しさの範囲を限定しなければ、正しさの権威が保てないからだ。正しさとは限定的なものだ。限定しなければ正しさは成り立たない。

人は正しさを求めているようで、安心を求めている。そしてその安心は権威と結びついている。信じたいから、信じるから正しいのであって、みんなが言っているから、権威があるからということで安心しようとする。しかし、正しさとは本来、信じる信じないに関わらず認められるもののはずだ。

「正しさ」を叫べば叫ぶほど、怪しくなってくる。放射能や原発の情報も、限定的だ。放射能の害悪についても、放射性ヨウ素やらセシウムやらが、別々に単独にばらまかれているわけではなく、検知されていない物質がないわけがない。それに何年後、何十年後の影響について、過去のデータだけで計り知れるわけがないではないか。そして一番の疑問はやはりプルトニウムの情報が出てこないということ。検知できないのか検査しないのか隠しているのか、よく分からない。少なくとも「正しさ」を成り立たせるためには、情報を限定すればいい。限定された情報の中の正しさを信じるか信じないか、我々に選べるのはそのどちらかしかないのだ。

いずれ情報は時間差で、小出しに、徐々に明らかになってゆくことだろう。隠しているものも隠しきれなくなるだろうし、新たな数値も出て、いろいろなことが分かってきてしまうだろうから。
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by barcanes | 2011-03-25 21:53 | 日記 | Trackback | Comments(0)

失敗の科学

原発作業員3人に甚大な被曝。放射性物質が検知された水道水のエリアが広がり、ペットボトルの水の配布や増産などが行われた。やはり首都圏に原発があったら、事故によるパニックは相当のものになるのだろうと思わせる。そして、原発の危険と放射能に対して、人々がほとんどなにも知らなかったことがよく分かる。もちろん自分もだ。これぐらいの軽度の数値の場合、どのぐらい安全でどのぐらい危険度があり、そしてどのような年齢の人に影響があるのか。それは洗い落としたり、排泄されたり、減衰したり、ヒトの治癒力で克服できたり、どのような対処法があるかということを、我々はやはり実際に体験しないと分からなかったのだろう。

今日は東電と政府の原子力政策について少しだけお勉強。国は安全の指針として、国民の安全と原発の安全という2系統を考えたとき、国民の安全は原発の安全が建前で、原発を守れば国民を守れるという理屈であることが分かる。つまりは国民の安全よりも原発の安全を優先している。このような「想定外」の事態を想定していないのは当たり前で、想定しなかったから想定外なのだ。人はやはり失敗しなければ分からないのだ。

失敗が許されない行為に対して、あらゆる事態を想定して万全を期せないのであれば、人はリスクをおかして、自己責任で行動するしかない。原発でなくとも、大きなプロジェクトの場合、その責任の所在をはっきりさせなければいけないが、一つの失敗がこのような惨事になってしまう場合は、人事の首を切るぐらいでは済まないので、その責任そのものが想定できないのだろう。原発の政策を最初に推進した人たちがいて、賛同した人たちがいて、それを実現し運営し、持続させてきた人たちがいて、一方で常に反対しながらも止められなかった人たちがいる。大小の差はあれ、すべての人たちに責任の一端がある。とっくに引退し亡くなった人たちにも責任がある。責任の所在があまりにも大きくてはっきりさせられないままに、我々は大きなリスクをおかしてきた。

私は科学の力を信じたい人間なので、原発の技術も信じたいし、おそらく技術的には大方問題はなかったのだろう。しかし、安全の指針が一系統しかなく、原発ありきですべてが成り立ってしまう世界を作り上げて、もはや原発なしの世界が成り立たないようにしてしまうのは、普通に考えて理屈に合わない。万全を期さない技術、限定的な世界で成り立つ技術というのは、科学としてはやはりまだまだ完全ではなかったのだということだろう。

私は科学の力を信じたいし、科学者も技術者も、常にもっと上を目指すものだと思っている。今回の大失敗を糧として科学的にも技術的にも乗り越えていける力が人間にはあると思う。そこに必要なのは、想定を越える万全を期さなければいけないということだし、99%大丈夫でも、最後の最後の0.000001%まで突き詰めていかなければならないということだ。しかし、完璧というものはないと思う。原発の技術自体はほぼ完璧だったのだろう。しかし、現実の世界は、自然の世界には、完璧ということはないのだ。失敗がある世界という方が自然なのだ。

我々の人生だって、失敗の許されない完璧な人生なんてあり得ないし、つまらないだろう。おそらく、失敗の含まれる科学というものを我々は必要としているのだ。人間の知性は完璧を求めるもので、完璧を求めるあまり、完璧さが成り立つ世界だけを見ようとしてきた。そしてそれ以外を見ないようにしてきた。それは原発だけではなく経済もそうだし差別もそうだ。我々は常に視野が狭く、変化に気がついても、今までと同じでいいや、と我々の世界の壁を保守しようとする。

原発の問題についても、過去に様々な提言があり反対運動があり、改善点があり、危険性を指摘されてきたことが、今噴出している。そのすべてを我々の保守的な心が前例主義に従って、今のままでいい、変化を起こすのは大変だ、といういかにもお役所的な体質のように見捨ててきたのだ。

人は失敗を犯す。失敗を恐れ、失敗を認めず、失敗を謝るだけで失敗を反省しない。一つ一つの失敗を人のせいにし、責任を転嫁し、責任から逃げることに慣れてしまうと、失敗という言葉を自分の世界から遠ざけてしまい、そしてどんどん怖くなってしまい、う。そして自分の世界にあるはずの失敗という言葉を見ないようにしてしまう。

我々は自分たちの世界に「失敗」を、我々の責任で、もっと認めていかなければならない。失敗と責任はワンセットだ。責任のない科学は政治や戦争の道具となり、奴隷となってきた。失敗のない科学は利権と経済と我々の生活のすべてにハッタリをかまして、夢と挫折をもたらしたのだ。我々は失敗を克服して失敗から学び、失敗を挽回する。そのような技術や知恵があるはずだ。失敗のある知恵を持ち、失敗を含む科学を考えていかなければならない。我々は大きな失敗を経験したのだ。これが大きなチャンスになればいい。

この失敗をチャンスに変える、エネルギー政策に大きな転換を求められるようなアイデアや技術を持った人たちがいる。東電の電力支配体制も揺らぐだろう。大いに検討に値するものがたくさんあると思う。一方でそれらを止めてきた東電や政府の権力があり、これからはその戦いになるのだろう。民衆は常に負けてきたが、これからは科学が失敗の側につくべきだ。嘘や偽の希望や夢は崩れ去ったのだ。この失敗を含む現実の中から、たくましく夢や希望を築いていかなければいけない。

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2週連続で夜の計画停電が定休日に重なった。停電営業する気満々なのにな。今日も停電中たくましく開けている知り合いのお店を回る。ヘッドライトとLEDカンテラを持って真っ暗な街を歩くのは楽しい。ろうそくの灯りはやさしく暖かい。BGMのない静かなお店に料理の音やにおいが漂う。暗く寂しい忘冬の夜に、わずかな灯りを求めて人が肩を寄せ合いお酒をすする。人が求めているのは電気ではなく、ぬくもりなんだ。

10時までの予定が8時半頃にぱっと電気がつき、停電は終わってしまった。この調子だと、僕のお店は停電の日でもあまり関係ないな。ちょっとつまんない。
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by barcanes | 2011-03-24 15:24 | 日記 | Trackback | Comments(0)

キレイゴトと夢

葛飾区の浄水場から210Bqと、乳児の基準値(100Bq)を上回る放射性物質を検出。都から水道水を飲まないようにとのニュースが出された。今回は降雨によるものだろうし、放射性ヨウ素なら減衰も早く、チャコールのフィルターで濾過されるという話もある。大人には問題ないだろう。しかしやはり子供には心配である。これからはこういうことが少しずつ広がっていくだろう。いちいち警戒しなきゃならないのもめんどくさくなって、対処に慣れてくる人も出てくるだろう。常に、自分と他人では基準が違うのだ、と思った方がいい。自分の責任が及ぶ、家族や大切な人を含めた上の、自己責任なのだ。責任を国や公共のせいにしても、大して助けてくれない。

最近、FMチューナー付きのすごく軽い音楽プレーヤーを買った。ボイスレコーダーもついてる。今日はそれを持ってランニングしてみた。たまたまつけたラジオで、震災に対するメッセージやリクエストをずっと流していた。困難を乗り越え、励まし、僕がついてるよ、という曲のオンパレードで、今、人が欲しているのはこういう歌なのかなと思いながら聞いていた。中島みゆきの「時代」は確かにこういうときに沁みるな。

番組の最後にパーソナリティーが、メッセージをくれる人はみんな、被災地の人たちが辛い思いをしているのに「私にはなにもできない」とか「節電や募金しかできなくて」と、自分だけ悪いことをして謝っているような言い方をするけど、なにも悪いことなんてしていないんだよ、というようなことを言った。そうだと思う。この世に生まれ、生きているだけで罪を背負っているような「原罪」の感覚というのは、キリスト教だけのものではないだろう。だとしても罪を償うのは謝ればいいってもんじゃないのだ。

「この曲を被災地のみなさんに送ります」とか「聞いてほしい」という言い方でリクエストするほとんどの励ましソングが、上っ面の励ましでキレイゴトばかり言いやがって、という歌ばっかりでさ、辛いときにはそういうのも必要なのかもしれないけど、キレイゴトで一時夢を見ても、そこにはキレイゴトですまされない現実があるわけだ。エンターテイメントは時間を切り取り、空間を切り取って、そこだけに成立する限定的な世界を出現させ、その中で見られる無限の夢を表現しようとする。キレイゴトは切り取らないと成立しない。切り取らないで、夢を見ることはできるだろうか?現実の世界では、切り取らないこの現実で夢を見なきゃならないのだ。

マラソン大会で誰彼かまわず応援する人たちみたいに、応援するのは簡単だ。そのランナー一人一人にどんな事情があるかも分からず、ペースを上げすぎないようにと必死に抑えてる人をも頑張らせてしまう。でもそういう応援を喜ぶ人もいるし、楽しいものではある。応援する人は頼んでもないのに勝手に応援してるのだ。

だからラジオで勝手に応援する人も、言い訳も枕詞もいらないのだ。披露宴かなんかで「手短に」なんて言いながら長いスピーチをしといて「簡単ではございますが挨拶に代えさせて」とか言っちゃうようなもんだろう。あんた長く喋りたかったんだろうが。言い訳を形式化して安心してるんだ。被災者の気持ちを察しているつもりなんだと言って、文句を言われないように防御線を張っているだけなんじゃないか。あたしには募金しかできませんが、なんて言わずに募金すればいいんだよ!被災者のためじゃなくて、その曲をかけてほしかったのは自分だろうが!と、走りながら空に向かってつぶやいたのであった。ちょうどボブ・ディランbotがつぶいてる。「あなたもたまにはブーイングを浴びないと何者でもなくなる。」

テレビでは、小さな漁村がほぼ全壊し、唯一残った旅館に一時80人が身を寄せ、孤立していた。旅館の女将がリーダーとなって取りまとめ、人々の悲しみを受け止めていた。10日ほど経って、行政からの要請で市街地に避難することになったが、このままみんながバラバラになり、人のいない廃村になることを恐れている。「人に作ってもらった町じゃしょうがない。ここで夢を見る。自分たちで作っていくんだ」というようなことを言っていた。

切り取られたキレイゴトは一時しのぎにはなるかもしれないけど、それじゃだめなんだ。この現実の中で夢を見なければ。このくそったれの現実と、その中で見られる夢を語るのだ。この現実を知り、その先に見えてくる夢を見たいのだ。人に文句言われることを恐れちゃだめだ!

そのラジオ・パーソナリティーは番組の最後に、私からのリクエストと言って、HEATWAVEの「それでも世界は美しい」をかけたよ。
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by barcanes | 2011-03-23 13:33 | 日記 | Trackback | Comments(0)

食品と信頼、バカと客観

3号炉にも電源がつながり、福島第一原発の全ての燃焼炉に電源が回復した。しかし全ての冷却機能が制御できるようになるにはまだ時間がかかるそうだ。海水への漏れも既に止まっているのかどうか気になる。しかし原発の爆発的な危機に関してはここまで持ち直すとは、先週の水曜頃にはとうてい思えなかった。かなり絶望的な気分になっていた。絶望感は薄れたが、その分暗鬱な放射能の問題が広がって、薄く広く永遠に続いていくのだろう。

食品への影響。政府の言い方では「ただちに」健康に影響は出ない数値、ということだが、それはすぐにショック症状が出るような値ではないというだけの意味だ。長期的に影響が出るとも出ないとも言っていない。ということで、当該地域の出荷制限以外に、出荷の自粛、あるいは仕入れ拒否、そして不買というようにいわゆる風評被害が広がった。これはある意味当然のなりゆきというか、人々の心の動きはそのように動いてしまうのだから仕方ない。それは政府の指示も、国の暫定的な基準も、市場の動きも小売店の判断も、いずれも信頼に値しないからだろう。

我々はなにを信じて食べ物を選ぶのだろうか。よく言う酒飲み話で、ナマコとかフグとか、誰が最初に食べたのか、というのがある。大臣が記者会見でカイワレを食ってもダメなわけで、どこを食べたらダメで、どういう風に調理したらOKとかを繰り返してきた、長い経緯があったわけだ。放射能のおそれのある食品についてはチェルノブイリなどのデータもあり、やはり子供の体内被爆ということが一番怖い。その次にまだ子供たちを育てなきゃならない、将来の長い人たちがいて、そして子孫を残す見込みのない我々みたいのがいて、そして老い先短い人たちがいる。姥捨て山みたいな暴論だけど、我々みたいのは長生きすることなんて考えず、率先して食えばいいのだ。

既に我々は体に悪いものを山ほど食ってきたのだし、酒もタバコもやっているような奴は、大して気にしてないだろう。デブも大食いも食えよな。別に1ヶ月間それだけを食べるわけでもないのだし。しかしああいうニュースを見て、なんとなく大丈夫なホウレンソウでも食べたくなくなる人がいるのも分かるし、逆に何となく食べたくなってしまう人もいるのが面白い。

いつの時代にも大勢の逆を行くような者が少なからずいて、風評に左右される人たちを笑いつつ許しつつ、人間の強さと治癒力を信じて、恐れずにバカをやれるような人たちが僕は好きだな。バカには人を変える力がある。きっと最初に牡蠣やウニを食べたのもバカに違いない。バカは危険で旨いものを求めるからね。

でもやっぱり、子供には食べさせない方がいい。

ということで今日はヒマだったので、放射性物質と放射能などについて基礎知識ぐらいは知っておこうと思って勉強してみた。アメリカの妹からはFacebookで得たデータが送られてきて、とっても心配している。昨日の夜から神奈川や静岡の「時間あたりナノグレイ値(nGy/h)」が上がっているという。おそらく雨が降ったからだろう。グレイ(Gy)と、こちらでよく使われているシーベルト(Sv)は微妙に違う単位だ。グレイは「空間放射線量率」といい、放射線を浴びた空気がエネルギーを受けとることに基づいた単位であり、シーベルトは、放射線によって人体に与えられたエネルギー量を表す単位であります。SvはGyに、係数0.8を掛けて計算するのだそうだ。

1nGy/h=0.8nSv/h=0.0008μSv/h

茨城では1500nGy/h、神奈川では150前後で推移している。100から300nGy/hで計算すると0.08から0.24μSv/hということで、平常の基準値よりはもちろん高いが全く問題なさそうだ。比較の対象としてよく使われる、胃の検査を一回したときに浴びるX線量は600μSvということなので、0.24μSv/hだと2500時間浴び続けて胃の検査一回分ということだそうだ。もちろん医学的な検査と単純に比較することはできないが、過剰反応する値でないという安心材料にはなる。

そして食品について出てきたベクレル(Bq)は、これまた違う単位で、放射性物質の放射能の強さ。Svに換算するには放射線物質ごとに係数が変わり、また経口摂取と吸引でも係数が変わる。放射性ヨウ素131は甲状腺ガンの治療にも使われる物質で、半減期が8日と短い。セシウムは半減期が長く、人体からの排出もされやすいそうだが、筋肉に蓄積されやすい。セシウム137の半減期は30年だから、海産物などでは6、70年は危険が続くということになる。魚食性の高い魚類で生物濃縮が起きやすい。そして今はまだ検出されていないらしい、使用済み核燃料に含まれるプルトニウム239は土壌から植物には吸収されにくく、動物やヒトに消化吸収されないが、呼吸によって体内組織に接触すると危険なのだそうである。

細かい数値や科学的記述に関しては全く責任を持てないので、各自調べてください。確かに数値や単位を知ったところで、なんの安心にもならないし、なにを信じていいのか分からない。マスコミもいろいろな数値を出して客観的な判断をさせようとしているのは分かるのだが、こうなってみると、客観的なんてものはない、ということが分かってくる。客観的というのは主観との兼ね合いなのだ。客観=主観、なのだ。なにを信じてよいか分からない、というのは、自分を信じられないということと同じだ。自分を信じなければ、客観的というものはない。そこにはただ風が吹いているだけ。風に舞っている自分がいるだけだ。

バカはほっといても、どうせ自己責任で生きてゆくのだ。
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by barcanes | 2011-03-22 21:28 | 日記 | Trackback | Comments(1)