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藤沢の遺跡展

新聞にちっちゃく出てた「藤沢市遺跡調査速報展」に行ってみた。「第6回」とのことなので、過去に何度も開催されていたのだろう。場所は「藤沢市民ギャラリー」、藤沢駅北口駅ビルルミネプラザ6階です。同時開催で絵のグループ展などもやっているので、おばちゃまたちがワラワラおしゃべりしていますが、この一室は静かに、熟視するおじさま一人だけ。藤沢市内の、最近調査が進んだ縄文から古墳時代を中心とした発掘物が展示してあります。

「柄沢遺跡」は鎌倉市域に向かって見下ろす斜面部、縄文草創期後葉から縄文早期後葉(紀元前9~5世紀)の撚糸文(よりいともん)土器。片瀬山一丁目の最頂部から南斜面に位置する片瀬山配水池の敷地にある「片瀬山(宮畑)遺跡」には、同じく縄文草創期終末頃の、食物粉砕用に使われたと考えられるというスタンプ形石器や磨石(すりいし)が並びます。

「江ノ島植物園内遺跡」は、これまで江ノ島全体が県の史跡、名勝に指定されていることや、大きな土木工事がほとんどなかったことから発掘調査をされたことがなかったとのことですが、現在のサミュエル・コッキング苑を造成する際に初めて調査され、20居もの縄文時代の竪穴式住居跡が見つかりました。この様子はコッキング苑の一室で展示されているので、ご覧になった方も多いでしょう。昭和25年、玉川にあった海軍の落下傘部隊の訓練に使われていたという鉄塔を移築し、「平和塔」として江ノ島の観光の目玉にしようとした江ノ電関連の江ノ島鎌倉観光(株)のもくろみに、江ノ島の住民は賛否に分かれ、大資本進出に対する反対運動も出たそうだ。しかしその当時の、遺跡の地に戦争に関わる塔を建てるというアイデアは、中沢新一さんの「アースダイバー」における、東京タワー建設のセンスと見事に一致しているように思える。しかも江ノ島は中世以来の修験地でもあり、江戸期には裸弁天の江ノ島神社が広く信仰を集めた聖地でもある。また、「無縁の地」として世の法治の及ばない自由の地であった江ノ島のてっぺんに縄文人が集落を作っていたなんて、なかなか痛快である。当然、なんらかの祭祀が行われたことであろう。

また、海洋交易の拠点ともなるようなポイントであったようで、沼津や伊豆周辺の特徴を持った土器や、伊豆諸島神津島産の黒曜石でできた石核(せっかく:やじりなどの刃器となる石器)も発掘されている。柄をつけて土を掘る石製石斧(せきふ)も展示されている。余談であるが、大森貝塚を発見し、縄文土器の名づけのもとになったエドワード・モースは、明治初年に海洋生物を研究するために来日し、最初は江ノ島に研究所を持った。といっても漁師の番小屋のようなところであったそうだが。実はこんなところにも縄文のつながりがあるのである。

さて最大の見どころは、「西富貝塚」である。昭和22年、藤嶺藤沢高校の読史クラブの生徒によって発見された。ちょうど遊行寺の上手の丘の上である。ここからは縄文後期の炉の跡と平安時代の住居跡が見つかり、その間の時代に起きた地震による地割れや地滑りの跡がはっきりと残っている。飾り突起や筋模様の入った縄文土器や磨石に混じって、平安時代の土師器(はじき)の破片も出ている。そして広い範囲を占める西富貝塚の一角にある「チンガ塚古墳」と呼ばれるこんもりした塚のエリアの調査が1999年から2000年にかけて進んだそうである。ここからは見事に完全なかたちのカワイイ土偶が発掘された。縁にうず模様の入った浅鉢(加曾利B式土器)や深鉢の模様も見事である。注ぎ口のついたポットのような注口土器のデザインも素晴らしい。そのほか糸穴の開いた翡翠の大珠や立派な石皿と磨石のセット、幾何学模様や網代模様の入った大きな壺(堀ノ内式土器)、それに小さなミニチュア土器まである。(写真撮影は禁止とのことでお見せできないのが残念。)

また円筒埴輪の破片も出土し、この辺りが6世紀頃の古墳であることも分かった。しかも直径25メートルもの集濠を持ち、神奈川県ではやや大型になる円墳ということである。1325年(20年説もある)に四代上人呑海によって遊行寺(清浄光寺)が建てられたのは、この辺りにあった廃寺の跡地であったと言われている。現在の場所に移ったのは、1500年代半ばのようだ。また、鎌倉の極楽寺が1259年に北条重時(義時の三男)によって現在の地に建立される以前、この地に堂宇を置いていたという説もある。縄文海進期には岬のような場所であったこの高台が、貝塚から墓地、そして寺へ、鎌倉期に建立された遊行寺に至るまで聖地であり続けた歴史を持つことが分かるのである。やはり江ノ島と遊行寺、この2ポイントが藤沢の重要なパワースポットなのである。

相模湾沿岸の数少ない貝塚のひとつである西富貝塚からは、やはり数多くの貝殻や動物魚類の骨が出ているそうで、特に多いのがカキやハマグリ、ダンベイキサゴ(ながらみ)など、なかなか美味いものを食している。ノウサギ、タヌキ、イノシシ、ニホンザルにニホンジカ、クジラもある。魚はカツオにマグロ、スズキ、クロダイ、マダイにサメ、アカエイ、遠洋にまで漁に出ていることが分かる。またかわいいのが土器片錘(へんすい)という、割れた土器の破片を利用して、その両端に紐掛け用の切れ目を施したおもりで、筋や網目、様々な文様の入ったものが角が取れて丸くなり、中にはハート型のものもある。仕掛け網などの漁に使われたのだろう。彼らはまさに日本料理の根幹を成すような美味いものを食べてたんだと思うと、縄文人の顔が楽しそうに思えてくる。

裏話的なエピソードとしては、平成9年、西富貝塚近くの分譲住宅建設地で縄文土器片が見つかり、調査が始まるまでの間にマンホール埋設の工事が行われてしまった。排土の中から大量の土器片が出てきた。しかしトラック4台分の排土は既に外部に搬出済み。台風で発掘作業が中断した間にも、露頭していた土器片を心ない人に残らず抜き取られるという事件もあった。その後の調査であまり多くの発掘物がなかったことを考えると、多くの損失と未知の発見があったかもしれない、ということである。

古墳時代以降の遺跡としては、鵠沼神明一丁目の日本精工敷地内、北西端に「鵠沼横須賀遺跡」の発掘が行われ、4世紀頃の壺や中世の大きな溝が見つかった。このエリアは皇大神宮(烏森神社)周辺の鵠沼でも最も古い集落(神明二丁目、三丁目)の一角で、全体として藤沢市遺跡台帳(そんなものがあるんだー)指定「№50遺跡」となっているそうであるが、現在まで大した調査は行われていない。「弥生から中近世にかけての集落祉、散布地」とされているこの地域であるが、文献的には平安時代頃からの歴史を持つ皇大神宮のルーツは少なくとも古墳時代には辿れるはずで、恐らくもっと古いであろう。藤沢には縄文時代にも陸地だった洪積台地だけでなく、その後陸地となったとされる砂丘上にも数多くの縄文遺跡がある。境川右岸の大道小学校の校内には弥生、縄文両方の特徴を持った遺跡が残されているそうだし、引地川下流にもまだ調査はなされていないが弥生遺跡と思われる地点がいくつかあるそうだ。皇大神宮の御神体にも関係する那須与一の神話には、そのむかし海が目の前にあった頃の土地の記憶が表れているように思える。将来いづれ調査の機会があれば、鵠沼の歴史に新発見が起きる可能性もあるかもしれない。

以上、長々と述べてきましたが、その他、大庭や獺郷などの遺跡もあるのですが、実際の展示はものの5分ほどで見終わってしまうかもしれません。しかし発掘調査報告書なども置いてあるので、興味のある方ならなかなか楽しめると思います。それに縄文土器がお好きな方なら、ちょっと寄り道してみても決して後悔はしないはず。駅ビルですし。タダですし。

3月5日(日)まで。月曜休館。夜7時まで(日曜は5時まで)。
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by barcanes | 2006-02-24 21:30 | Trackback | Comments(6)

今年の夏の地引網は

毎年恒例の夏の地引網は、
7月23日(日)に決めました。
朝9時の網の予定です。

まだ早いようですが、もう5ヵ月後です。あっという間に夏になりますよ。
ご予定を空けておいてくださいね。忘れずに!

えー、ちなみに、当店は地引網屋ではないので誤解なきよう。あくまで当店のお客様の皆さんのためのイベントでございます。よろしくどうぞ!
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by barcanes | 2006-02-21 21:18 | イベント | Trackback | Comments(4)

五周年記念ライブを終えて

皆さんおつかれさまです!
現在朝9時半、片付けが全く終わらず断念したところです。

有料入場者約70名、バンドが11名+7名、
ライブ終了後にいらした方も15名以上いたので、
延べ100名もの方がいらしてくれたことになります。
もちろんこれは5年やっての最高記録!
ぼろビルが崩れるのではと心配になるほどでした。

7樽近くあった生ビールも、日曜日のストック分も全て飲みきり、
45リットル以上も消費しました。
これももちろん新記録。
明日の生ビールがありません。(酒屋が休みなので)

今回の新企画の塗り絵も、予想以上の枚数が集まりまして、
当日その場で描いてくれたものも入れて、50枚ほどになりました。
なかなか壮観です。
ゆっくり審査して、傑作力作には粗品を贈呈させていただきます。
皆さまのご意見も聞きたいので、しばらく店内に張り出しておきます。(小学校の教室状態)
これから提出してくださるのもアリですよ。
童心に帰り、深層に潜む皆さまのアート心を引き出すこの企画、なかなか面白かったです。
またやりたいッスねー

それにしても、予想以上の盛り上がりで、準備も全く足りず、 甘く見ておりました。
オーダーのお酒がなかなか出ず、ご迷惑をおかけしました。
普段のヒマな営業に慣れきってしまっているものですから・・・
そんなことで、最後まで残ってくれたREAL BRASSのリーダーもりけんさんと、
DJをやってくれた(オツカイにも行かせてしまってスミマセン)BANさんを
5時半に見送ってから、 ブラブラ片付けをしているわけですが、
5年の間にたまった垢も目立ち、全くはかどりません。

というわけで、明日(日曜)は全く通常営業できそうにありません。
ほぼ休業状態だと思いますが、それでもよろしいという方は、よかったらご来店を!


それから、写真を撮る余裕がなかったので、
今日の写真を撮られた方は、よろしければお送りください。

そして、いろいろプレゼントを持ってきてくれた皆さん、
5周年の文字入りケーキをいただいたモリさん夫妻、おいちかったー
「renew orleans」のTシャツを取り寄せてくれたBANさん、
ワインをくれたマキちゃん、ジョージさん、ソムリエ(のタマゴ)と一緒に飲みます
小田原の酒蔵勤めの、自分のところの日本酒生原酒を持ってきてくれたレイちゃん、
すてきな記念品を持ってきてくれたのに、混んでてお店に入れなかったイクちんトヨさん、
ゴメンナサイ。アイシテマース(レゲエ・ジャパンスプラッシュ風)、塗り絵もアリガトーなかなか良かったよん
それから昨日お土産ビールをくれたオーエン(祝日本語検定2級合格!)、シスコも
韓国みやげの山ぶどう酒、ミヤハラ君、
まだもらってないけど先に言っとく、フランスタバコ買ってきてくれてありがとー、でも早くちょうだい、tosh君
高校の同期では唯一人祝いに来てくれたシゲもありがと

そしてそして、手伝ってくれたユウカちゃん(ビールが売り切れたのはアナタのおかげです。きっと僕が注ぐより美味いんだろうなぁ)、まあまあの働きキヨキヨ(きっと次回は、きっと!)
祐子と七音の皆さんもありがとう!生腕さらして頑張ってくれましたが、風邪ひかないように!
そしてREAL BRASSのみなさん、遠路はるばるお疲れさまでした!
「Handa Wanda」の選曲も、嬉しかったです!

それでは撃沈します。
とりあえず、ありがとうございました!
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by barcanes | 2006-02-12 09:46 | イベント | Trackback | Comments(2)

REAL BRASSのライブ、またやります!

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2月11日(土・祝)、当店の開店5周年記念ライブが決定!秋のカフェウィークで大好評いただいたREAL BRASSに来てもらうことになりました。「次はいつ?」との声も多数いただいていたので、また大勢のみなさんに来ていただけると嬉しいです。前回見逃した方もぜひ!

さらに今回はDJに、当店でもすっかりおなじみのBANさんがレコードを持ってきてくれることになりました。お楽しみに!

7:30 Open
8pm- Opening Act
8:45- REAL BRASS (2ステージ)
11pm- After Hours

¥1,500(w/2drinks)
今回は割引特典があります!
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みんなでぬりえしよう!

上の絵にぬりえをしてご持参いただくと、500円引きになります!
みなさんの好きな色に塗ってください。
優秀作品には粗品を贈呈!パソコンでぬりえしたい方にはファイルも用意してあります。

詳しくは当店ホームページをご覧下さい!
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by barcanes | 2006-02-11 01:07 | イベント | Trackback(1) | Comments(1)

雪の藤沢 つづき 宿場から新地へ

前回、雪の降った1月21日の日記が思わず長文化してしまい、切り離して連載いたします。「新地」のことをちょっと調べ始めたら面白くなってきてしまったんです。

さて藤沢には遊行寺の宿場町として発展した江戸時代からの、盛り場としての歴史があります。芸能関係者の信仰が篤かった江の島弁才天へ、杉山検校にあやかった按摩・鍼灸などを業とする座頭(琵琶や三味線を弾く者も)らの信仰も盛んだった「江の島詣(もうで)」の旅客は、藤沢宿かあるいは鎌倉のどちらかを経由して、江戸から徒歩で往復3泊4日の行程が一般的だったそうです。江戸後期の享和から天保(1801-43)の頃には、街道も整備され、生活にゆとりのできた庶民たちが気楽な旅を楽しんだそうです。

『藤沢宿は、江戸から12里で、1日で歩くには少し距離が長い。江戸を七つ(午前4時)に出発すると、高輪(品川)で夜明けとなる。高輪の大木戸は開け六つ(午前6時)に開くから西に道を取る。川崎で昼を食べると、日が西に傾く頃権太坂を登る。日が落ちてやっと戸塚宿に着く。丁度10里である。ここから小田原まで10里であるから区切りの良い宿場であった。老人と女性と子供は程ヶ谷泊まり。目的を持った元気な若者は藤沢宿に急いだ。この宿は江ノ島詣の道と、田村通り大山道が通じていたため、宿はたいそう賑わった。当然過剰な飯盛女がいたのである。』湘南ふじさわウォーキング協会から引用。なるほど。

江戸から丹沢の大山への参拝の旅が流行した「大山詣」の最盛期は、それより前の宝暦年間(1751-64)が最盛期だったということなので、大山詣だけの「片参り」はよくないという俗信や、また大山の石尊権現は男の神様、江ノ島弁財天は女の神様であることから、江の島詣をセットにするようになり、そうして江の島詣が単独でも流行るようになったのかもしれません。しかしそのような理由はあくまで表向き、本当の楽しみは「精進落し」という輩も少なくなかったようで、東京青山からの大山街道や、戸塚からの大山道から行って、帰りはわざわざ遠回り、辻堂の四谷(現在の藤沢バイパスが旧東海道に合流するところ)まで「田村通り大山道」で出て、藤沢宿へ向かったのです。このあたりの俗なお話は江戸時代の川柳にたくさん残っていて、中には江の島詣でに行くと言って出かけて、品川(遊郭があった)に3泊、当時から江の島名物だったという貝細工もそこで手に入れてオミヤゲにするというツワモノの話もあります。(『我が住む里』第50号より、出張千秋「江の島詣ゆかりの江戸川柳」)

藤沢宿には享和から天保年間には本陣、脇本陣を含め、50件近い旅籠があり、その他、食事を出さない木賃宿もあったそうです。旅籠のうち50畳未満の小規模のものが40件を占め、その中には「飯盛女」を置く「飯盛旅籠」も多かった。飯盛女とは文字通りご飯を盛ってくれるだけではなく、それ以上のサービスをしてくれる遊女の面もあったのです。一軒につき二人までしか置いてはいけないという決まりがあったにもかかわらず、実際には多くの飯盛女を抱え、22軒に計105名(文政3年、1820年)もいたそうで、藤沢の飯盛旅籠は安いことでも評判があったらしい。中にはハードワークな飯盛女たちに対して温情の厚い店主もいたそうで、本町4丁目の永勝寺などには飯盛女の墓も残されている。

現在の藤沢橋の交差点から白旗の交差点までのおよそ真ん中、本町郵便局と昔の御殿跡と言われるところに立つ藤沢公民館とを結ぶ道路の辺りから、西の坂戸町、東の大久保町とに分かれていた。現在でも白旗神社と、遊行寺の前にある諏訪神社の鎮守の区分けは、この線で分かれているそうである。飯盛旅籠が多かったのは東の大久保の方で、時は下って明治10年(1877)の調査では、大久保町に43人の娼妓がいる。貸座敷業25軒、料理人6軒も大久保町に集中しており、(広義の)花街が形成されていたようである。

宿場地域には火災がたびたび起き、中でも明治に入って明治11年の「伊勢茂」火事、13年の「大川」火事、19年の「中長」火事などで大くが焼失した。明治20年には東海道線藤沢駅が開通し、駅前(もちろん北口)に角若松などの旅館も開業、その後、江ノ電の藤沢-片瀬(今の江の島駅)間が開通した明治35年(1902)、県令によって旧宿場地域にあった貸座敷業者が駅北口の辰巳町へ集中移転となり遊郭となった。もともとこの辺りは何もない畑地(あるいは桑畑か松林か)である。その頃から現在に至るまで、100年の時を経て、この地域を「新地」と呼んでいるのである。

昭和21年、GHQの指令で公娼制度が廃止され、その後も旧遊里遊郭は赤線青線と名称を変え、「特殊喫茶店」「特殊飲食店」として黙認存続した。私はまだ藤沢に赤線青線があったかどうか、史料に当たったことがないのだが、昭和20年(1945)9月には米軍慰安所施設になり、辻堂海岸の海軍演習場が米軍に接収(昭和34年に返還)され、鵠沼の洋風住宅に米国人将校が住んだ時代には、新地は彼らの遊び場となった。

東京タワーの建った昭和33年、売春防止法施行。赤線が廃止となった後も様々な風俗店が法律に守られ?現在に続くわけだが、昭和20年代に火災に遭った遊行通りの飲食店が移転して来るなど、新地もスナック街として存続し、数軒の風俗店も残っている。最近はアジア系マッサージの客引きが目立つが、既にその多勢は駅南口に散らばっており、事情通によると20軒近い風俗店が営業している。一方、新地には和楽器店もあり、花街としての性格もかろうじて残っていたのかもしれない。

そして現在、日本一脆弱なマンションとして藤沢の悪名をすっかり高めてしまった「グランド・ステージ藤沢」がわずかこの1年足らずで建設されたのも、この新地に接する一画である。駅から徒歩5分、100平米の間取りと言えば魅力のマンションであった訳だが、藤沢に住む者にはなかなか手の出ないエリアだというのが、ほぼ皆さんの感想であろう。路地を一本挟んでさいか屋の北側裏手には「サンパール駐車場」が広い敷地を路面のまま占めているが、この辺りは計画道路と北口再開発が練られているエリアである。長い間この敷地は手を付けられずにいたが、丸井撤退や景気回復もあってか、最近ようやく論議が再燃しているようだ。詳しくは商工会議所の「藤沢北口駅前地区まちづくり」のpdfページをご覧あれ。この北隅にはその藤沢商工会議所が寂しげに建っているが、ここはやや小高くなっている砂丘で、大正時代には高座郡役所があったようだ。遊郭に接するように高台にお役所、という立地もなかなかに興味深い。

営業を続けられているお店もまだ多数あるので、あまり失礼な話はしてはいけないと思うのだが、取り壊した敷地や廃業されたと思われる空家も目立ち、新地の入り口にあった銭湯「仲の湯」も2年ほど前に取り壊してしまってからは、往年の最後の(ネオンの)輝きも失せてしまった。噂によると、このあたりの土地もかなり整理が進んでいるということであり、北口再開発に合わせて、がらりと土地の記憶もろとも埋め立ててしまうかもしれない。

歴史の遺物が消え去っていくことに対するメランコリックな感情は、つい後ろ向きと捉えられてしまいがちだが、つい最近一気に読んだ「花街 異空間の都市史」(加藤政洋 朝日選書)で思いが少し変わった。(広義の)花街は風俗警察の取締りにより空間的に囲われることで保護され、街外れの新開地に移動され、その周りにお店や繁華街や、普通の街並みが形成されるようになり、そうして普通の住民から疎ましがられ衰退し、いつか消えてゆく。c0007525_302744.jpg筆者の言葉で言えば、花街は都市の「インキュベーター(孵化器)」としての役割を果たし、そして役割を終えると。江戸時代から伝わると言われる芸妓の文化も、実際は明治維新後になって世俗が弛緩し、取り締まる一方で(管理化と税収面等で)認可するという両面性により、全国に花街が誕生することで花開いた。結婚式や持ち家神話などと同様、武家あるいは一部の権力者の文化が明治期に平民に一般化されたのと似たような構図であろう。大正期には既に「時代遅れ」と言う文化人もあった芸妓文化が現在に続いているのも、スタイルとして生き残った、ある意味歴史の遺物である。我々平民の文化など、どこからか現れて、一時かたちを成したかと思うといつしか消えて行く、音楽のようなものである。昨秋刊行のこの本の作者、私と同世代である。次作はきっと遊郭や赤線青線などのディープなところをやってくれるのではないかと期待しています。一方、女性史的な観点から見た飯盛女から風俗業界に到る虐使・差別等の問題もあり、水商売のはしくれとして私もまだまだ勉強が必要です。

まだまだつづきますよー。次回はアースダイビングにチャレンジ!

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前回の写真、左上は地図上の赤い矢印から入ったところにあるアーケード。北国の飲み屋街に来たような風情がある。この左手前が「仲の湯」跡。この中にあるスナックもまだ営業されているようです。行ってみたい!写真右上、アーケードを抜けたところ。たしかここが「小鳥の街」だったと思ったんだけど、この2,3年の間にすっかり周りの様子が変わってしまった。雪に隠れているけど、取り壊された建物の基礎のコンクリートがそのままむき出しになっている。でもまだ看板の灯りがついているお店もあります。このスナック長屋の正面、写真の右側に話題のGS藤沢が建っています。写真左下、この先の路地にも何軒かスナックがあります。道の先が左に折れて見えないところが興をそそる。写真右下、GS藤沢を周って東寄りの路地から左に商工会議所をなめつつ朝日の方向を望む。左手が広大なサンパール駐車場。ここに何が建つのやら。正面右の青いテントの下はジャム系ダイニングバー・Free Cultureさん。なかなか刺激的な立地です。
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by barcanes | 2006-02-07 02:48 | Trackback | Comments(0)

5年経って

この何日かの間に、たくさんの方に開店五周年を祝っていただきました。新潟から手づくり酵母の自家製パンを送ってくれたサトちゃん、故郷の焼酎を持ってきていただいたNさん、ステキなレコードをプレゼントしてくれたFさん(もったいなくてまだ開けられません!)、タイ旅行のオミヤゲ?Yオさん、ディジー&パーカー45年の共演CDをくれたYouSuck、それからたくさんおごってくれた皆さん、2日はだいぶ酔っ払ってしまいました。

5年前の2001年の冬も寒く、1月の終わりには雪で電車が止まったりした年でした。21世紀という未知の世紀越えをしたばかりの2月に右も左も分からないままお店を始めて、いろいろなトラブルに見舞われ、それでも家族や友人、そして常連の皆さんに支えられ、なんとかながらえてきた次第です。社会的には2000年代最初の5年間は下り坂の経済状況の中、藤沢の飲食業界も入れ替わりが激しくなり、そして我々の世代の人たちが小さなお店をオープンするようになり、当店の周囲に三軒もあった廃業したままのパチンコ店が全てマンションなどに建て替わりました。当店の隣の、昔パチンコ「吉兆」だった敷地には、東急建設のマンションが来週にも完成するそうです。

たったこの5年の間にも消えてゆくもの、様変わりしてゆくもの、その代わりに新しく生まれてくるもの、常連さんや友人たちもこの5年の間に結婚したり子供が生まれたり、引っ越していってしまったり、そして新たなお客さんと仲良くなって・・・。右肩上がりではないけれども、波がありながら持続を続けています。5年といえば大学も卒業(一年留年)するし、私も新たなステップに踏み上がってみたいと思います。

次の5年は世界的にも大荒れの様相を呈していますが、グローバル的な喧騒が上のほうで激しく行き交うほど、我々のローカルなところが大切になってくるでしょう。ワールド・ミュージックやジャム音楽がエキゾチシズムやトランスを越えて、我々なりの新たなスタイルが模索されれば、根付きつつある我々のローカルなシーンがよりしっかりとできあがってゆくことでしょう。

そういうことのためにも、大事なことは味わうことです。お酒の技術や文化は確実に進歩し、上質で美味しいものが手に入りやすくなっていますが、その成果はお酒の伝統的な役割だけでなく、そしてマニアやスノッブな嗜好品というだけでもなく、新たな役割を与えつつあります。お酒は飲み手の舌や嗅覚で完成しますが、これは音楽が聴き手の耳に入って初めて音楽となることと同じです。しっかりと自分の感覚で、それらの味わいを受け止めること。雑音にまみれた中から音楽を聞き取るように、騒雑に絡まった我々の感覚をリセットし、深めてくれるのがこれからのお酒の役割です。酔いのトランスを伴いながらも、100%自然の産出物であるお酒の味わいの中にある自然を感じ取るのです。

バーはその手助けをし、多ければ良いっていうものではないけれども、少なくない選択肢を示したいと思います。この思いは5年間やってきた中でも変わりませんでした。これからもこの基本をもってさらに邁進しつつ、他にはない、全く独特なお店であり続けたいと思います。

今後もよろしくお付き合いください!

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by barcanes | 2006-02-03 19:20 | Trackback | Comments(0)

ESB (狂牛病じゃないよ)

c0007525_20104860.jpg・REDHOOK ESB レッド・フック・ESB (5.8%)

「ESB」は「エキストラ・スペシャル・ビター」の略。イングランドの「FULLER'S」という醸造所が、冬季向けに造っていたビールを1971年にこの名前にしてから、他のブルワリーもこの名前をつけたビールを出すようになった。しかし今ではESBと言ったらFULLER'Sのことを指すようになってしまったという。1982年にアメリカ・シアトルに創設された新世代醸造所のひとつである「レッドフック・エール・ブルワリー」は、87年にやはり冬季限定醸造ビールを発売し、それにアメリカでは初めてESBという名前をつけた。その後アメリカでは多くのブルワリーでこの名前のビールを造っているそうであるが、私はまだどれも飲んだことはない。

ESBはIPA(インディア・ペール・エール)と呼ばれる、元々はイギリスからインドへの輸出のためにアルコール度数が高め、ホップの苦味を強めに造られたスタイルに比べ、モルト味がしっかりし、その分ホップの苦味がやや弱く、色も赤みをおびたやや濃い目のストロング・エールである。ドライな苦味とモルトの甘味がバランスをとっており、やや高めのアルコール度数とこのスタイルのエールにしては弱くない炭酸が効いて、ゆっくりと最後まで味わいが持続し、飲み終わる頃には心地よい酔いで身体も食指も温まり、次の一杯を探したくなるであろう。
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by barcanes | 2006-02-02 20:08 | お酒 | Trackback | Comments(2)