ヒロシマの原爆の日

広島の原爆の日に相応しく、常連のO君がDJイベントをやってくれました。仲間を集めてのこぢんまりしたものでしたが、彼なりの鎮魂の気持ちが伝わってきました。ジョー山中の70年代のアルバムや、カウント・オージーのナイヤビンギ、それにフェラ・クティやKeyco、最後のケイコ・リーなどが印象に残りました。どうもありがとう!

昼間にはテレビで、戦中の九大医学部生体解剖事件のことをやっていた。九州大の歴史にも日本の歴史にもタブーとして語られない事件だという。墜落したB-29の米軍捕虜を生体解剖し、胃や肺の切除、海水を代用血液にするなどの実験をし、死に至らしめた。戦後、米軍によって日本軍関係者と九大教授が死刑を宣告されたが、担当医はすべてを否認して自害、死刑確定者も朝鮮戦争時の恩赦によってその後釈放された。当時現場に立ち会った医学生で刑を免れた方は、「軍の命令に逆らえないとは言え、身内を戦争で失ったり、今日明日生きるか死ぬかの戦争の中では、そういうこと(敵軍兵士を生体実験で殺してしまうこと)もやむを得ないという感情が、医師としてもあった。そこまで人間を狂わせたのも戦争なのだ」というようなことを言っていた。

「戦争論」のクラウゼヴィッツの理論なら、戦争は政治の延長であり、政治が「人を狂わす」とも言えることになる。世の中に戦争が今も存続するのは、やはり政治があるからだ。国家があり、政治がある限り、世界に戦争状態はなくならないのだろう。どうして人は政治的な活動をするのだろう。政治的な欲望とは一体なんなのだろう。人はどうして何かのために闘おうと思うのだろう。そして、どうして国家があり、何かに属し、集団を形成して、そのために身を犠牲にすることができるのだろう。家族を守り、家系を存続させることと政治との関係は一体どうなのだろう。

最近そんなことをよく考える。
[PR]
by barcanes | 2006-08-06 04:44 | イベント | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://barcanes.exblog.jp/tb/4304052
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by tak at 2006-08-14 04:32 x
 初めまして、っていうかお店では何度か・・・。
戦争と平和については僕もよく考えます。「争い」は「個」を獲得するために必然の行為で、「個」を獲得することは人間の究極の目的であるようにも思えます。
 国家という集団においても、人間は国家的な「個」を同定すべく行動し、その究極の形が戦争なのではないでしょうか?僕は戦争肯定論者ではありません、「争い」が殺人という究極的なカタチでなければいけない理由はないだろうとおもうから。しかし、戦争も人間の一部であり、決して捨てられる物ではないという事も現実だと思います。全ての戦争を他人事のように「悪」として裁く、これもまた極端な思想ではないでしょうか。自分を含めた「人間」が戦争をも辞さない生き物であることを前提に置いた上で、それを避けるべく不断の努力をするという、難しい生き方をしなければいけないのだと思います。
 人間が成熟(?)して、争いを起こさない生き物になったら素晴らしいようにも思われますが、静的なシステムは即ち死であるという自然界の原則から考えると、矛盾に満ちた幻想に他ならないと思うのでした。
 おっと、長々失礼!!酒飲んで笑ってればピースの一つの体現ですってばね!
Commented by barcanes at 2006-08-14 09:44
やはり国家をあまり擬人化しないほうがいいような気がします。擬人化すると、つい愛しちゃったり、その反対で憎んだりしちゃうでしょ。

人間の持っている暴力性と、この世の中に戦争がある現実は認めざるを得ませんね。「悪」もまた無視できない我々の半身ですが、お酒飲みはきっとそのことが分かってる人たちでしょうね(笑)
<< 江之島亭、サイコー! 第5回毎年恒例地引網大会 >>