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不思議な気分の穴あき鉄板

9/7(木)

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娘のなっちゃんの自転車の練習に、いつもの公園よりもちょっとだけ離れた緑の広場に行った。初めて奥の方に抜けてみたら、今まで気づかなかった看板があって、「大東の穴あき鉄板」と書いてあった。横に投げ捨てられたように置いてある、奇妙な穴が無数にあいた分厚いその鉄板を見て、何だか不思議な気分になった。以下、看板の文章を無断で書き起こし。

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大東の辻の穴あき鉄板

明治21年(1888年)に旧海軍技手の下瀬雅充(しもせまさちか)が、ドイツから持ち帰った新火薬を、大砲を使って辻堂海岸で試射しました。試射には、何枚かの鉄板が標的や砲台に使用されましたが、これはその内の一枚とされています。この鉄板は当時英国で製造された戦艦三笠、タイタニックの鋼板に成分が類似しており、英国製ではないかといわれています。

かつて皇大神宮から柳原、本鵠沼の駅にかけて小さな川が流れていました。ちょうど大東の辻のあたりに土橋がかかっていましたが、横須賀鉄砲連隊が、射撃場のある辻堂海岸に鉄砲を運ぶ際に土橋を壊してしまいました。そこで射撃の的になっていたこの鉄板を持ってきて、橋の代わりにしたと伝えられています。

この鉄板は、川が地下に埋設された水路となった後も長く大東の辻に残されていたものを移転したものです。

平成28年3月 大東町内会

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辻堂海岸には江戸時代以来の演習場があって、戦後は米軍に接収された。(返還後には団地や海浜公園、下水処理場などができた、「浜見山」交差点より南西の三角地帯である。)余談だが、そこに駐留した米兵たちが遊びに来たのが藤沢北口の「新地」と今でも呼ぶ人のいるエリアで、いわゆる「青線」だったらしい。

この穴あき鉄板を目にして湧き上がってきた不思議な気分は、この夏ずっと戦時ものの本を読んだりしていたものだから、こんなところに思わず転がっていた戦争の遺物に出くわしたのかな、と思ったのは早合点で、時代はもう一昔前、明治である。

しばらく目が離せなくて見つめていた。私はこいつを知っている気がする。どこかで会ったことがあるはずだ。「大東の辻」がどこか分からないが、埋まっていたのならそこを通過したことがあるに違いない。高校の通学にこの辺りを自転車で通っていたから、その頃の記憶がもやもやと湧き上がってきたのだ。

今でも一応会員の籍は残っている「鵠沼を語る会」のHPを調べてみた。
http://kugenuma.sakura.ne.jp
「大東の辻」はJR社宅の南東、いつも夕方になると焼鳥のいい匂いが漂っているお肉屋さんのある場所であった。確かに私は高校に行く朝など、たまにそこを通っていた。
http://kugenuma.sakura.ne.jp/03-03.html
(下の方に鵠沼の道路図があります。)

後日、このお店「高橋精肉店」に行っておばちゃんに聞いてみた。まさにそこの自販機の前に、2、3年前まで埋まってたとのこと。雨の日なんかにはスリップした気がするし、実際転倒する人もいて危なかったと。なぜそこに埋まっていたかは、「鵠沼を語る会」で何度かお話ししたことのある、亡くなった渡部さんが書いてらっしゃった。(第0320話「穴あき鉄板の橋」。ここではお店の名前が「森井商店」となっている。)
https://kurobe56.net/ks/ks0320.htm

こうなると気になってくるのは、その土橋がかかっていたという小川である。皇大神宮(今でもその周りにめぐらされていたであろうお堀のような痕跡があります)から流れていたと聞いたことのあるのは、引地川の河口あたりで合流する小川(国道134号線の下を潜る辺りで暗渠から顔を出している)があり、我らが堀川網や海岸あたりの町内会の名前にも残されている、その名も「堀川」である。

この穴あき鉄板がかけられたという小川は、本鵠沼駅から柳原(本鵠沼と鵠沼海岸の駅の間の線路沿いあたりの小字)へと流れていたとある。先の渡部さんの同じHPのコラムに、ちょうどこの小川の流路が描かれたものを見つけた。(第0092話「後期新田開発」)
https://kurobe56.net/ks/ks0092.htm

画像も無断転載。
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これによれば、ちょうど穴あき鉄板の埋まっていたお肉屋さんから、軽自動車がギリギリ通れるぐらいの湾曲した小道を抜け、本鵠沼あたりでは唯一の幅広の道路に出て本鵠沼駅へと至る、その筋道こそが小川の流路ということになる。奇しくも私は現在その道沿いに住んでいる。
(この辺りのことも渡部さんが書いていた。第0275話「大東道」)
https://kurobe56.net/ks/ks0275.htm

以前、10年ほど前に調べて書いたことがあるが、幼少から成人後まで住んでいた集合住宅は、片瀬の境川が湾曲していた大正時代頃までの名残の、氾濫地の跡に建っていたことが分かった。私にはどうやら逃れようのない因縁があるらしい。どうしたことか、川の流れの残響に吸い寄せられてしまうのだ。言わば河原者の血ということになるだろうか。穴あき鉄板によって呼び起こされた、不思議な気分である。

久しぶりの郷土史ネタでした。

〈追記〉
辻堂の演習地について詳しく書いてあるHPがありました。辻堂元町の八森稲荷というところにもう一枚の鉄板があるとか。

by barcanes | 2017-10-16 01:26 | 日記 | Comments(0)