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「空気」の研究、2デイズ

8/17(木)18(金)

先週14時間かかってイコライズ&ミックスした、あるピアノトリオのCane'sでのライブ録音。その日の時点ではようやくここまで来た!という達成感で満足したのだが、カセットテープに落としたり何度も聞き直しているうちに低音の少々耳障りな帯域がうるさく感じてきてしまった。それでも完璧になんてできっこないのだから、定休日のこの日は午後をまるごとテープ落としに当てようと店に来たのだが、やはりダメだ。ここで妥協するのは良くない。早々にやり直しを決断。明日は一日それをやる。一からやり直しだ。

観たかった音楽ドキュメンタリー映画、「Take me to the river 約束の地、メンフィス」がちょうど横浜のレイトショーでやっているのを知ったので、暗くなってから出かけた。関内の駅から歓声の聞こえるスタジアムの逆側に遠回りしてしまって、外国の話し声が聞こえる暗い裏通りを少々迷いながら歩いた。伊勢佐木長者町の「シネマリン」にようやく行き当たり、階段を降りてドアを開けると、さながら街外れのゲストハウスにたどり着いたようなホッとした気持ちになった。大して歩いたわけではないのだけど、ちょっとした外国旅行者の気分になれた。

ちょうど映画が上映されているジミー・ツトム・ミリキタニの猫や原爆の絵が展示されている小さなロビーで汗を乾かす時間があって、300円ほどのレイトショー割引がせっかくなので缶ビールを一本。客席真ん中あたりに腰を下ろして、ページを開く。行きの電車で読み始めた本は「『空気』の研究」。ミックスとリバーブの空気感をどう考えるか、という真っ只中のテーマに関する参考書、ではなく「日本教」やいわゆる日本人論で名高い、在野の著作家にして書店主である山本七平の代表作の一つである。

夏には毎年、一冊ぐらい戦争関連の本でも読みたい気分になる。今年はNHKの戦争関連のドキュメンタリーを何本か見たが、映像の強烈さの他にはどうしてもメディアなりのフィルターがかかっているように感じられてしまう。そのフィルターもやはり「空気」なのだろう。戦争に向かってゆく「空気」、豊洲市場の移転と無責任工事にまつわる「空気」(この件ではユリコちゃんが山本七平の「空気」に言及したそうである)、カゴイケ&カケ問題などで顕著になった政官民入り混じっての隠蔽と口裏合わせの「空気」。カンボー長官の記憶や言及が失われるのも、日本人は今も昔(明治維新あたりから)も何も変わらず「空気」に支配拘束されるからなのである。

昭和51年ごろに書かれたこの本は見事に今のご時世も予言しているが、その「空気」の拘束からいかに脱却するかという示唆も忘れてはいない。「人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき、その人は空気の拘束から脱却している。(あとがきより)」音楽の空気を再構築することはこのことと無関係に違いないが、一概にそうとも思えない私は少々狂い始めているのかもしれない。まあそういうのも今に始まったことではないし、そのぐらいが自分にはちょうどいい。

さてこの映画、音響的なものを期待したのだが、全体の音量がやや小さく感じられたこともあり、ちょっと欲求不満。伝説のロイヤル・スタジオもセパレイトされた分離の良い音でキレイすぎる。もちろん壮大な共演プロジェクトなのだから仕方ないだろう。オーティス・クレイやボビー・ブランド、スキップ・ピッツなどの大御所(いずれもこの撮影を最後に世を去った)が孫ほどの若手と世代を超えて共演するというのが、この映画のあらすじとして据えられているのだ。その他メイヴィス・ステイプルズの天真爛漫なお喋り、ウィリアム・ベルのその辺にいそうな人柄、チャーリー・マッセルホワイトの渋さ、ディッキンソン兄弟の立ち位置も良かった。そして意外にもスヌープ・ドッグの手早い仕事っぷりに感心した。しかしStaxとHi以外にほとんど言及がなかったのも少々物足りなかった。

サウンド的な欲求に満たされないまま、深夜にも花屋や果物屋が開いているギラギラした福富町あたりを抜ける。女の人には声をかけられなかったが、おじさんがいちおう客引きしてくれた。川を渡るとガラッと空気が変わって野毛へ。閉店まで30分、「ダウンビート」の階段を上がる。ちょうどピアノトリオがかかっていた。

レイ・ブライアントのいかにも黒っぽいピアノが、アルテックのシアター・スピーカーを通して濁ったサウンドで響いている(61年のコロンビア録音”Con Alma”)。ところどころ詰まった帯域が見受けられるが、それも味である。ドラムもベースも意外なほど小さいが、ピアノがメインであるのでそれで良いのだろう。

程なくしていかにも音楽関係者らしい会話をしている二人組が入ってきて、マイルスの「枯葉」(キャノンボール・アダレイ)をすかさずリクエストした。もちろんピアノは小さくミックスされており、ピアノソロのところだけ音量が上げられている。私も去り際にECMのサウンドを聞いてみたくてリクエストしてみた。スティーブ・キューンの”Trance”がかかった。リバーブの効いた70年代のサウンド(75年)である。しかし決してキレイな音ではなく、濁った成分が十分に残されている。これでいいのだと思った。もちろんスピーカーやそのほかの再生機材によって再生音は変わってくるわけだが(もちろん盤質も)、ところどころ突出した帯域があってよいのだし、むしろそこに味わいがあり、再生の楽しみも生まれてくるのだ。自分なりに納得して、閉店時間に野毛の地下道を通り抜けて帰った。

翌日は昼過ぎから店に行き、件のピアノトリオのミックスを一からやり直し。ヤマハのスピーカー4115で低音の処理から始めてエレボSx300で高音域へ、イコライジングだけで5時間かかった。慣れないパライコの作業で、結局20ポイントほど削った。あとはカセットに入れる予定の6曲を、前回の作業をたどりつつ、各楽器の音量を探る。抑揚の素晴らしい演奏だったので、ひとつひとつの曲の中ではフェーダーを動かさない方針で、音量のレベルを合わせ、リバーブの具合を決める。(最後のアンコールでやった曲だけ、いたずら心でリバーブを3段階で深くした。)コンプは考えていたよりも結局薄くなり、ライブ演奏の時点の幅広いダイナミクスと奥行き感をできるだけ損なわないようにした。

3曲ほど終えたところで開店時間となり、来客あり。機材のセッティングはそのままに残して、客人の途絶えた瞬間を見計らって続きをやりながら、お酒を飲まずに朝4時まで。そんな最中に初めていらした客人はたまたまオーディオ好きな方で、興味を持ってくれたので助かった。ようやくビールを飲んで、達成感ついでにカセットに落として朝6時。重低音が残ってしまったが、それも味わいということで。他所の環境で聞いたら問題があるかもしれない。

それでも磨きに磨いた。研ぎ澄まされた音になったと思う。完全に生音のライブだったから、マイキングをして録音して、ミックスしてリバーブを載せているわけだから全くの別物である。そんなことを許してくれるミュージシャンは普通いないと思うが、私は許可もなく勝手にやっているので、ホントだったら怒られても仕方ない。

しかし「空気」の研究とは、「空気」に水を差し、その水が雨のように降り注ぎ、降り注いだ雨が金属を腐食させるように、消化酵素の作用のようにまた元に戻って「空気」を形作る、その永遠のような繰り返しの中で、罪悪を感じながらもあえて空気を読まずに水を差すことによって、その対象への追求が可能になる、ということである、と私には読めた。私のやっていることは言うなれば、差した水の雨が次の「空気」を作り出そうというところかもしれない。それでも万が一、それが成功していたら大したものであろう。

そうでなくても、この春からずっと続いてきたカセット・プロジェクトと、この店で生じた新しい音楽のサウンドが、ようやくここに形として結実したのだと、私は大いなる自負と満足を得た次第である。あとは作品としての最終段階というところまで来たのではないだろうか。
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by barcanes | 2017-08-30 04:39 | 日記 | Comments(0)