接触/非接触、ADA変換

7/30(日)

レコードは針が盤面を擦り、その実際の振動を増幅させているのに対して、CDは非接触であると言われる。視ているだけでお触りしていないではないかと。

それを言うなら例えば、マイクもエレキギターのマグネット・ピックアップも、感じているけど触ってはいない。真空管だって接触していない。そもそも耳で音を聞いている時点で非接触である。エジソンやベルの時代の電話の発明や無線もそうだし、視覚も聴覚も芸術と名のつくようなものは大抵が非接触ではないか。

真空管がトランジスタや半導体に取って代わられるように、接触/非接触という対立項はそれらの中間素子に、まさに半導体のような、だいたい接触してるけど完全には接触していない状態、音楽を聞いてはいるけど完全には伝わらないような状況、愛し合っているけど理解し合えていない、みたいなことの度合いとして捉えられるかもしれない。

音楽は空気の振動であるのに、真空管の真空を通したりすることを音楽好きの人たちが好むというのも興味深い。若い時分に自分専用の再生装置を手に入れ、イヤホンを耳の穴に突っ込んだ時の感動のようなダイレクトさ、あるいは若いお姉ちゃんは見てるぐらいがいいやと、直接/間接の好みが変わってくるのは年のせいかもしれないが、間接を介した直接性、非接触を介することでより感じられるような手触り感というものを求めるのは、自然(あるいは神)との直接性を望んでも望みきれない人間の発明した、いわゆる芸術というものの特性なのだろうか。

先日のブログで言いかけたADA変換、アナログ→デジタル→アナログの、D/Aの部分の変換もおそらく同じような意味で重要なのだと思える。間接化や抽象化、あるいは数値化するところまではよい。問題はそこから、いかに感じられるようにするかである。

我々の社会におけるルールづくりも多分、そのように考えると、四角張ったルールを作るのはよいが、それを多種多様な人間に適応させることができるのかどうか、ということなのだと思う。

ハイエンド・オーディオに懐疑的にならざるを得ないのは、良い音を目指してる本人にとってはそれで良いのだが、これが良いのだと言ってしまえば聞く者の補正力が損なわれるだろうからである。録音音楽リスニングは、行き着くところ現場で鳴っていたであろう音を再現するところに行き着く。そんな現場主義も悪くないし、そんな音を聞いてみたいけれど、正解は限定される。リスナーの想像力は、バーチャルな録音音楽を自らの耳で補正する楽しみを含む。補正力の自由が残されるべきである。

人間の作業をロボットに変換するのは良いし、AIやバーチャル技術がアナログ感を目指すのは当然で、より本物っぽくなっていくのだろう。だが、人間が機械に合わせたり、ルールに合わせて生きたり、正解といわれるものに従って感じちゃったりしちゃあならないのである。

そういう意味では、録音物など大した精度である必要はないのかもしれない。演奏さえ良ければ、音質なんて大した問題じゃないのかもしれない。ただ、リスニングの補正を楽しめるような工夫、リスニングを阻害するようなデジタルノイズ的な要素を極力減らしてゆく努力は必要だろうと思う。

デジタルという便利な道具を使いながら、その数値化されたものを空間の奥行きや時間的なズレを含んだ現実の手触り感に近づくように積分し、立体的に再構築してゆく行為には、音楽が現実の社会に関わっていく可能性が未だにあることを示していると思える。

多種多様なリスナーの自由を確保する音像を提示してゆくことは、リアルタイムのライブ音楽とはまた別の次元で、他の世界や他者への想像力を喚起するという音楽の力を信じることなのかもしれない。我々が昔のレコードを聞くように、未来の人々が今の録音物を聞かないとは限らない。あるいは音楽とは、ルールに縛られた現実社会に対する桃源郷のようなものなのかもしれないわけだから、常に限られた中での理想像を示すべきなんだろうとも思える。良い音を目指すということは、人それぞれの現実の限界の中での自由ということにつながってくるのだ。

(深夜の酒場の会話を再構成してみました。)

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カウンターのこの数十センチの距離もまた接触/非接触の領域である。


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by barcanes | 2017-08-09 02:09 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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