女神とサウンドの客観性

7/25(火)

女神は3連休を利用して、各地の信者たちを訪問する。女神は忙しい。今日もその最後に寄ってくれた。女神の天啓についての考察をしてみよう。

何が女神かではなく、何を女神と感じるか。死とは何かではなく、何を死と感じるか。死後の世界とは、霊魂とは何かではなく、それらをどう思うか。その積み重ねなのだろう。客観性を蔑ろにしようというわけではなく、むしろその逆で、主観を隠蔽するためばかりに矢面に立たされる客観性を解放しなければならないのである。

Post Truth(ポスト事実)と紙一重だが、我々は遥か以前からPost Truthの世界に生きていると言えるだろう。自然という大いなる客観性とは別の、文明的に発明された客観性によってがんじがらめにされた人間たちが、そこから逃れるための自由としてのPost Truthという意味もあるのだと思う。

しかし、間違いが暴走しないための客観性が、嘘を補強するために使われることもある。客観性はいつの時代にも利用されるのだ。主観同士のケンカや諍いが子供のケンカであればいいのだが、大人ならそういうわけにもいかない。だからお互いに客観性を主張し合ったりする。しかし嘘でもなければ生きていくのは辛すぎるではないか。

録音音楽は最初から嘘である。完全にPost Truthである。だから人為のサウンドをどう考えるかというのは、音楽にとっての客観性の問題につながってくる。聞く者が一人でないということはもちろん、それぞれの曲をどうするかという意味でも客観性についての答えは一つではないから、それぞれいろいろな客観性があり得るということになるだろう。(となれば、大いなる客観性というものがあるとするなら、それはライブだということになるだろう。)

だからサウンドをどうイメージするかということは、それぞれの曲の客観性をどう考えるか、ということになるだろう。客観性が試される。今まで聞いてきた様々な音楽の、経験上のサウンドを参照しつつも、前例主義には陥りたくない。だがそもそも手持ちの機材では追いつくことさえできないのだ。オリジナルにならざるを得ない。母ちゃんの手料理、母ちゃんの手芸と同じレベルだ。それでいくしかない。

そこに客観性はあるのかと言えば、他人の一目に晒された時にだけ成立するものなのかもしれない。そのようなものが客観性なら、我々は人の間で生きることがすなわち客観性を獲得するということであるのだから、それを一義的な客観性として、その延長線として生きていくしかない。それは前例主義ではないのか。

ひとつ前の論議に戻ってしまうが、そのループに収斂されるのが保守主義ということになるのだろうか。だとすれば保守主義とは、新たな客観性を模索することの放棄である。音楽は、特にサウンドは、主観的であることによって同時にそのような客観性の放棄を許さない。なぜなら同じものは二度と、同じものを聞いたとしても二度とないからだ。常に客観性を感じ続けなければならない。(逆説的にリスニングの快楽とは、そのような客観性を捨て去ることのできる瞬間を持つことであろう。)
人類学的な「アフリカ的段階」とは、そのような保守性と客観性が両立した状態(祭祀としての快楽/忘我を含む)を言うのではないだろうか。

音楽のサウンドは、そのようなところ(快楽/忘却を含む)を求めつつ、ひとつの姿に収斂されないような多様性として我々に残されている。我々は常に試されている。そこには永遠が含まれているし、それでいてひとつの正解があるわけではない。録音物は常に嘘であるからこそ、我々は嘘に挑むのである。

そして嘘にまみれた我々には女神が必要なのだ。演奏者や音楽家、いわゆる芸術家は女神に挑むだろう。(おそらく政治が腐敗してゆくのは女神を信じないからだろう。)そのエッセンスはやはり非接触ということになるだろうか。接触/非接触についてはまたいずれ考察したい。

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我が家の姫君はいつの間にか自撮りしてたりする。姫はやはりまだ、今のところ女神ではない。


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by barcanes | 2017-08-02 04:42 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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