「獲物山」に撃たれる(前半)

4/19(水)

先日から借りたままの加川良さんの「教訓」(1971年)をカセットテープに録音すべく聞いていた。はっぴいえんど〜ニールヤング的サウンドの「ゼニの効用力について」はブレヒトの訳詞ということだが、無学にて原詩は分からず。

『ネェ お前さん方よ
ゼニをいやしいものと思うなら
言っとくが その考えは まちがっていますよ
この世はつめたいよ ゼニがなけりゃ』

調律したてのピアノを弾きに来たピアノ王子。彼のピアノを聞きながら、先日から借りたままの服部文祥さんのムック「獲物山」(笠倉出版社)をパラパラとめくる。サバイバル登山からライフル狩猟、テンカラ釣りや身近に住んでるミドリガメ(で作る鍋は極上の鶏鍋を超える美味だそうです)まで、食料を自分で調達する、ということはつまり「命を奪う」というテーマとその考察が、一層深みとエゲツなさを増している。エゲツない、というのは読んでいる自分に突きつけてくるからだ。おまえは「消費バカ」で「家畜」であると。

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流通し、店で売られている食料食材を買っている、ということはつまり買わされていることと同義である。自分で捕獲採集せず、ということは生命を剥奪する責任を負っていないものを、その入手までの行程を知ることもなく食っているということはつまり食わされているということと同義であり、なればそれはエサであり、エサを食べている我々は社会にとっての「家畜」であるということになる。

最後の行程として自分や家族や料理人や見ず知らずの他人の手が加わればそれは料理となるかもしれないが、自分で稼いだはずの金を支払って選択しているつもりでも、構造として家畜であることには変わりがない。それぞれの行程に信用や信頼があると信じることによってだけ、我々は家畜(という自覚)を免れているに過ぎないのである。

つまりこの著者は、信じていない。その徹底した不信が私の虚を、脇腹を突いてくるのである。信じるということは、責任からの逃避、あるいは押し付けであると。人間不信のくせに人を信じないと生きていけない人間は、しかし全ての人を信じることができないから、信じられるであろう人と信じられない人を峻別してしまう。人の信用の中でしか生きられないことに、人の苦しみのひとつがあるのだろう。それは責任を負えないという苦しみなのだ。自分の日々の選択に、あるいは自分の生命に対してさえ。

私の商売など経済社会にとってのゲストでしかなく、金で買ってきたものの差益で生きているだけの、消費するだけの客体である。この社会は消費を促す。国民は消費する客体であり家畜であるわけだから、消費するだけの金と、動けるだけのエサを与えておけば良い。がんがんエサを食い金を稼ぎそして使う人が尊ばれ、それに憧れる。それが「消費バカ」である。商売人は、経済はそれを助長する。しかし儲からない商売人は、少なくとも消費バカを増産しないことには役立っているかもしれない。

社会のゲストでしかない現実の中で、私はこの店の「ホスト」となることによって何らかの責任を負い、ささやかな安らぎを得たつもりになっている。ただその責任とは、客人にこの家畜社会からの現実逃避(つまり一時の死)とその間の何らかの(臨死的)体験を与え、そして元の生活に戻す(再生)という責任であるのだろう。やはり私はこの世界ではホストとはなれず、夜の異次元の、異世界のホストということになるのだろう。

ピアノ王子は相変わらずひとり、フリーソロのクライミングを続けている。

(後半につづく)


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by barcanes | 2017-04-23 00:08 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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