レコード・イベント3連発:礼節とフォルムと流動性

3/20(月祝)

この連休の週末金土日と、レコードイベント3連発でした。複数参加あるいはコンプリートの精鋭もいて、みなさんに盛り上げていただきました。ありがとうございました。月曜祝日の今夜はタラタラと前夜の片付けをしたりして予想通り、程よく疲れております。

金曜日はラテンをテーマにしたBataan Qことテツさんの「ギラギラ金曜日」、この日はラテン・ファンクやブーガルーを中心に、どラテンを外し気味のギラギラ度やや控えめな選曲。イベント目当てではない来客もあって、本来の金曜の夜らしい好い雰囲気だった。ブーガルーの発生は1965年頃ということだが、その発展は67、8年頃。ちょうどJB(とその時代)のファンクの発展と時を同じくしているあたりが興味深い。

JBにもラテンっぽい曲があるし、ラテン的なビートの取り込みがファンクに繋がっていったことは否定しようがない。それらブーガルーにしてもファンクにしても、ラテン・ジャズを祖としたソウル展開に相違ないのだろう。アメリカのブラック音楽(ロックンロールも勿論)は凡そジャズの派生であると言えるだろうし、全てをジャズと言ってしまって良いのだと最近ようやく理解できるようになった。
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土曜日は「Voices Inside」9周年ということで主宰の二見潤+9名のDJがそれぞれ「究極の9曲」をかけるという趣向。みなさん互いに手の内を読み合いながら、結果としてみなさんがVoices的な王道からやや外し気味の選曲となったのは、割と予想通りだったかもしれません。

9年間、毎月一度も休まずに108回続けてきたこのイベントは、毎回テーマを変えながらブラック・ミュージック全般を範疇にしてきましたが、次第に50年代60年代のR&Bがその中心を占めるようになりました。それでも今回のようにみなさんがやや外し気味にもその全体をカバーしてくれることで、我々の考える「広義のソウル・ミュージック」をみなさんで共有できているように思えます。それこそがまさに「Voicesミュージック」なのです。

個人的には「ファン研部長」としての初仕事だった久保田さんの入念なファンク選曲と「一億総ファンク社会」の連呼、続いてクローザーをしっとりと抑えてくれたSandfish Records宮井さん(Voices第一回のゲスト!)の、終盤のお二人が特に印象的だった。共にカントリー・ブルーズ的に一曲目を始めたところにも相通じる「Voicesミュージック」への理解を感じることができると思う。

本編ではディープ・ファンクで盛り上げてくれたVoicesクルーのオーノ・ブギ男氏が祝詞ハープをブロウして終演を迎えた深夜1時ぐらいから、ちょうど各現場を終えて駆けつけてくれた顔なじみが集まり、ややカオスなアフター・アワーズ。みなさん帰るタイミングを失ってきたようだったので、ここは思い切って私の持てるシングル盤で幕引きを図る。この日全くかからなかった、マッスル・ショールズにボビー・ウーマック、サム・クックやアイズレー・ブラザーズなど。見事にこの夜も引けていきました。

出番順(潤くんは3曲ずつ)にこの日の出演者を記しておきます。

二見潤(Voices Inside)
関根雅晴(Voices Inside 顧問)
GEN(Three Amigos)
阿仁敬堂(a.k.a.ダメ男)
文屋章(師匠)
二見潤(Voices Inside)
Yamada(横浜 Hot Vinyl)
大野正雄(Voices Inside)
KZMX(藤沢歌謡会)
久保田耕(ファン研部長)
宮井章裕(Sandfish Records)
二見潤(Voices Inside)
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日曜はフロアを広げてノーザン・ソウル・パーティー”Soul Kingfisher”、当店では約一年ぶり3回目の開催。こちらは私の知ってる曲はほとんどかからない。前回は一曲も分からず、この日も一曲だけだった。同じ「ソウル・ミュージック」と言えども、ある意味Voicesとは対極のような趣向ということになるだろう。前回やった後に主宰のゴトーさんから”Northern Soul”とはどういうものかについてのレクチャー(告知の文章をご参照ください)を受けていたので、今回はそれを自分なりに理解したいなと思って臨んだ。

前夜との対照において、厳しいルールにおける純度の高い党派性がノーザン・ソウルなら、ルールはないけど純度もかなり高い無党派性がVoicesかもしれない。共にやや閉鎖的ではあるけれど排他的というわけでもない。むしろ当店では結社性のあるイベントの方が集客があり、オープンであるほど来客が少ないという傾向があると一般的には言える。純度ということで言うならば、閾値が高ければ純度が高いものを求める人が集まる可能性が高まるかもしれないし、ハードルが低ければ純度が高いものだけが残る、ということもあるのだ。

Voicesとノーザンとは、言ってみれば道教と儒教のひと合わせのようである。それらは礼節や家族といったフォルムを重んじる儒教的なものと、固定化されたフォルムを嫌って無為自然の流動状態に戻そうとする道教的なものとの、対立するようなものでありながら補い合う、「流動するもの」の扱いに関する知恵であり嗜好の表裏一体。VoicesとKingfisher、ちょうど合わせてCane'sのソウル・イベントが、補い合うかたちで表現された感じがしました。

流動するもの、それは人の動きであり音楽でもあります。礼節を用いながら人の知らないであろうマニアックな音楽を用いることも、一定の評価のあるマニアックなものを垣根を超えてかけていくにしても、一定のビート感で身体を動かせようとするのも感情心情に訴えかけようとしてゆくのも、Vinyl物質に固定化された録音音楽を流動状態に戻すことに他ならないし、そのことによって流れゆく集客を図りそして留めようとするものであります。共にマニアックであることにも大差がないし。人は固定化を求めつつ固定化を拒み、音楽もまたフォルムを求め完成を目指し、そしてまたどんな方法であれ解き放たれることを望むのでしょう。

こうして考えてみると、私は礼節を軽んじ、フォルムや完成を拒み、流れるものを流れゆくままに見送り、また自分も流れに飲み込まれゆく、そのようなタイプだと思えます。だから、音楽自身はどんな解き放たれ方をも厭わないのだろうと思ってしまうし、それについての礼節は人それぞれ、人の嗜好とはその礼節やフォルムの度合いなのだろうと思うに至るわけです。

当店での様々なレコード・イベントやライブ・イベント、それぞれの主宰者出演者、それぞれに嗜好や趣向が違うわけですが、私はどれにでも合わせようとしながら合わないものもあるし、集客や条件が見合わないものもある。私が最近エンターテイメントが好きじゃないと思ってしまうのは、フォルムが強すぎると感じてしまうからだし、結局私は人数の流動よりも、音楽が流動するであろう人間の純度の方を取ってしまう傾向にあるわけです。人も音楽も(お金も)流動すれば最高ですね。

そういう意味では最高の3日間でした。たくさんの人が来てくれました。特に日曜日は、久しぶりにカクテル・マシーンとなってドリンクを作り続け、いい流れで働くことを思い出させていただきました。ありがたいことです。

こうして3日間を振り返ってみると、アメリカのブラック音楽の全てをジャズと言ってしまうようなことも、フォルムを無視した乱暴な言い方かもしれません。しかし我々は、フォルムを無視するよりももっとひどい無視を知ってしまっています。礼節を重んじる社会が、同時に礼節の届かないところをヘイトしてしまうことを。私は礼節があってヘイトがある社会よりも、そしてヘイトに礼節を求めることよりも、礼節がなくても差別のない方がいい。音楽にもそれを求めてしまうのです。
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参考文献:中沢新一「イコノソフィアー聖画十講」1986年。文庫は1989年。大学に入って中沢さんの話を教室で最初に聞いたとき、配られたのがニーチェの「悲劇の誕生」とこの本だったと記憶している。最初は全く読めなかった。卒業してからようやく読めた気がする。この中の「聖ジョージの竜退治」は今読んでも名文だと思う。久しぶりに手に取ったこの本の「書」の下りから、今回の「道教と儒教」のヒントをいただきました。


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by barcanes | 2017-03-25 02:44 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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