ハギレ、ミコシ

3/15(水)

「この世界の片隅に」をまた観に行ってきた。3回目だ。スズちゃんが着物をモンペにした時の端切れを、連れて帰った戦災孤児の子の服に飾っていた。映画と原作漫画とを繰り返し繰り返し見ていると、いろいろなことに気づくことができる。あの子は、見ず知らずの子供を我が子とした希望は、その後どうなったのだろう。被曝したスミちゃんのその後は、同じ作者の別の漫画で描かれて映画化もされているそうだ。

好きな焼き鳥屋に寄ってからいつものバーに行き、スティーヴィー・ワンダーの”Key Of Life”をリクエストした。LP2枚にEPも入った大作だが、僕は安いのを買ってしまったのでEPが入ってない。その後、他のお客がスタッフをリクエストして、2ndの”More Stuff”を聞いていたら、さっきのスティーヴィーのアルバムに入っていた”As”という曲が流れてきた。同じ着物のハギレ、かもしれない。
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娘の幼稚園は今日で終業式。先週一週間インフルエンザで学級閉鎖だったので、ようやく幼稚園が始まったと思ったらもう終わり。来季の担任になるかもしれなかった若い先生が体調不良のため辞めることになったそうなのだが、もしかしたらオメデタなんじゃない?という噂。言うに言えない理由ばかりのこの世の中、そんなことだったら嬉しいね。どんな経緯であろうと子供は希望に違いない。

「オレは祭りが好きだから、他人のミコシでも担ぐよ。」久しぶりに会った同業の仲間が、昨年一緒に手伝ったイベントの件でそう言った。私はお神輿を担いだことがない。いや、あるな。子供神輿を担がせてもらったことがあった。でもそれは他所の町内のものだった気がする。余所者意識の強い私にはどんな祭りだろうと居心地が悪い。自分の祭り以外には。

他人の祭りを自分の祭りとすることができる時に、共感のようなものが生まれるのかもしれない。それは確かにFunkではある。だけど、ミコシという大いなるものに振り回されながらも心を合わせることで生まれる共感によって、大いなるものに対峙するような大きな気分になることに、私は憧れを持ちつつ嫌悪してしまう。

だから自分の店の祭り(イベント)を、それがいかにささやかであろうとも、お客さんたちに担いでもらうことには慎重になる。振り回されてほしくないし、むしろ振り回してくれるぐらいでいいのだ。おそらく神は、担がれることなど望んでなくて、一緒に遊んだり暴れたりすることを望んでいるのだと思う。ということは担がれることと同じか。担いでも担がれても、一緒に何かひと騒ぎしたいのだから。

だけど私はそれよりも、同じハギレを見つけた時のようなささやかな喜びに、運命のようなものを感じたい。だとすれば、そんな私は無神論者ということになるだろう。だから私は神輿を担ぐことができないのであり、私のささやかな祭りには、神輿もそこに乗るべき神もない、ということになる。

そもそも(キリスト教の)神は、レイ・チャールズ(とその仲間たち)が茶化してしまったことでソウル・ミュージックとして転生したわけだし、それにひと騒ぎに神を使うなんて戦争(あるいは商売)みたいなものじゃないか。オレは戦争になんか加勢したくない。だから担ぎも担がれもしない店をやっているのであって、店のグッヅのTシャツをお客に着させるようなことは、羨ましかったりもするけどしたくない。ミコシのない祭り、ハギレ祭りこそ我々にふさわしい。ああそれは、袖触れ合うも仏教か。(端切れグッヅ もいいかもね。)



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by barcanes | 2017-03-18 04:43 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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