SP盤に聞き倒される

2/11(土祝)

スタート時間の7時には客はまだ一人しかいなかったが、心配はいらないさ。15分遅れで始まると徐々に集まり始め、最終的には計30名ほどの盛況となった。予定していた関根さんが体調不良で来られなくなり、エースの一人を欠いたという点では完璧さを失ったかもしれないが、それも心配には及ばない。一人1時間ずつの3時間のセットということになった。
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トップバッターは阿仁敬堂、略してアニーさん。日米SP歌姫対決ということでビリー・ホリデイVS美空ひばり。59年没のビリー・ホリデイはまさにSP時代の人。1930年代のアルバム(SP盤が通常4枚あるいは5枚入り)の収録曲に後々のスタンダードでないものが聞けるのは、当時のティンパンアレーの人気曲が他の人たちに使われ、その残り曲だったから、という指摘が興味深かった。つまりホリデイのコンボは当時の若手であり、メロディよりもソロで勝負しようというジャズメンたちだったから。そのスタイルが後に与えた影響は図るべくもない。なんてったってビバップ以前である。

対するひばりちゃんはレコードデビューが1949年(昭和24年)の「河童ブギウギ」。1915年生まれのホリデイから22歳違いの37年生まれ。なんと12歳。ブギの女王・笠置シズ子にブギを歌ってはいけないと言われるほど上手にブギを歌いまくって(後に和解)、「あきれたブギ(50年12月)」「泥んこブギ(51年4月)」などの他、ブギ・ブームが去ればマンボ(「江戸ッ子マンボ(54年3月)」)やサンバ、チャチャチにロカビリー、ルンバにジャズと洋楽ものを片っ端から総なめにしてゆく。このあたりの「リズム歌謡」についてはまた後で。とにかくひばりちゃんの20歳過ぎまで、最初の約10年はSP時代なのである。(ディスコグラフィはひばりちゃんの公式ウェブサイトに詳しい。)
http://www.misorahibari.com/discography/index.php

やはり日本側の録音はオケの突っ込みが甘い気がする。当然、歌がメインであるから歌が聞こえればいいのだが、周りのサウンドのメリハリがないのは今に始まった話ではないのだろう。SPの録音は何を聞かせたいかの優先順位がハッキリしている。歌とソロ楽器が前。アンサンブルやドラムは後ろ。米側は(一概には言えないが)昔から低音を拾っているように思う。低音感受の文化的な違いとは何なのだろうか。

2番手は御大登場。文屋章師匠。ジャイヴやジャンプにTボーン・ウォーカー。New Orleansにシカゴ・ブルーズ。スリム・ゲイラードのライブ盤にはビックリした。歓声と拍手から始まり、何か面白いアクションでもしているのだろう、笑い声が聞こえる。もう既にテープがあった時代なのだろうか。それにしても盤質の極めて良い、ノイズのない盤ばかり。そして曲は名曲ばかり。こうなるとSPは無敵のメディアである。ピッカピカの新品の旧車のスポーツカーである。エンジンの爆音が唸っている。当時の新譜でもこんなにいい音で聞いた人は多くないだろう。こんなのタダで聞いちゃっていいんだろうか。

3番手には我らがVoicesを代表して大野マサオさん。西海岸からテキサスを通ってルイジアナへ、一度戦前ミシシッピ・ブルーズに辿って、そこからセントルイス、シカゴへと北上する。ゲイトマウス・ブラウンからアイク・ターナーまで。激烈エレキギターが炸裂。やはり50年代はエレキが最新の武器だった時代だ。テレキャスやストラトのシングル・コイル・ピックアップが、フェンダーのピカピカのイクイップメントがギラギラと輝いている。対するギブソン勢はやや大人な、上品な印象だ。主役は歌と同等か、あるいはフルパワーの音量で迫ってくるギター、そして息づかいそのものを増幅したようなハーモニカ。ブルーズ・ハープはSPの特性に最も適しているのではないかと思える。

文屋さんのセット途中から音量は上がっている。SP盤は音量を上げてもうるさくない。高音域がそもそも出ていないらしいし(スクラッチ・ノイズ対策で5kHz辺りでハイカットした)、アンサンブルとしても上の方が空いている。中音域に音が密集して聞く者に圧を与え、音の隙間にドラムやホーンセクションなど後ろの音が聞こえてくる。ハイは空気の音だ。だから音量を上げれば濃密な空気に包まれることになる。前の音はより前へ、後ろの音はより後ろに距離も増幅され、ギターアンプから出てきた音が空気に溶け込んで消えていくまでの音が聞こえる。ピアノは2倍はあろうかという巨大な躯体を現す。トランペッターがソロを取るためにマイクに近づいてくる。シンバルは後ろの方で控えめに鳴っていて、ドラマーはスネアで主張してくる。ベースは文字通り低音でボンボン鳴っている。

それらは決して解像度が低いとは言えないが、確かに小さい音ではその良さが分からない。飛び出す絵本のように、音量を上げるとミュージシャンたちが飛び出してくる。録音スタジオがこの空間にそのまま幻出する。それにしてもCHESSレーベルの録音とミックスは、この時代に群を抜けて素晴らしい。おそらく高音域をうまく使う術を得たのだろう。プレート・リバーブの実験的な使い方も面白い。

10時半ぐらいには本編が終了。そのまま延長戦がさらに3時間ほど続いた。浅見さんとマサオさんは持てるSPをかけ続けた。どんだけ持ってるんだ。ホントにこんなの聞けるだけで幸せだ。みんなチャージ払った方がいいよ。その後の一週間しばらく元気が出なかったのは、きっとこの幸福感の喪失からだ。そうに違いない。録音したものを連日聞いていたけど確かにちょっと疲れるだけだ。もし明日死ぬと決まったら最後に何食べたい?っていう質問あるでしょう。食い物に興味のない僕はSPを聞かせてもらうことにする。そしたらそのまま死ねそうな気がするわ。

最後は私の手持ちのSPも何枚かかけた。マリリン・モンローの色っぽい声、ヴィクター・ヤングの映画音楽のドリーミーでロマンチックなサウンド。歌劇のオーケストラも良かった。森永のエンゼル・チョコレートのCM曲、コロムビア・オーケストラのジングルベル、イヴ・モンタンの「枯葉」も良かった。この辺りはノイズもヒドくてノスタルジックな印象になってしまう。スウィート・ノスタルジー。感傷はスウィートで退廃的。私は古いものが好きだが懐かしむのは怖い。だって今の時代に生きていくのが嫌になってしまうから。

だからSP盤を聞くのも、昔はスゴかったんだよって言いながら昔は良かったっていうことだけにはしたくないとは思う。良さとともに良くない点があったから消えていった。どの時代にも良さと悪さは両面である。どんなものにも良くなる一方ということはない。でも何かが良くなるという希望でもなければ生きて行くのは辛いから、人は何かを良くしようとして同時に悪さをもまき散らして生きてゆく。人が善人であるためには全ての人が悪人でなければならない。誰かの悪を誰かの善が補完し、それがまた悪を生み、またそれを良くしようと循環していく。

片付け終わって、浅見さんが美空ひばりのコンピ2枚組CD「ミソラヒバリ リズム歌謡を歌う」をかけてくれた。寝てしまっていたアニキが起きてきて、戦後の日本の洋楽受容とそれをただ受け入れるだけではなく、なんかいろいろ混ぜこぜにして打ち返していたひばりちゃんとそのスタッフたちの意気に想いを馳せてみる。勝戦国アメリカの文化に魅せられた、あるいは洗脳された人々のすぐ後に我々がいる。なぜ私(や周りの人たち)がこんなにアメリカ音楽が好きなのか、かねがね不思議であった。なぜこんなに一生懸命にアメリカ音楽を理解しようと努めてきたのだろう。ただ自分の楽しさや知的欲求を満たすためかもしれないが、それにしたって何かを打ち返しただろうか。最後は「人間のあらゆるあり方を積極的に肯定する」というFunk本25ページの一文について答えのない話で朝6時半、タイムアップ。

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重要文化財級のSPを事もなげにセットする文屋師。

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興が高じてハープを取り出しベンドするマサオ”Blow Your Harp”オーノ。SP盤と同じ音がしてた。

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ブックレットにある湯浅学の文章より書き抜き。「自分のスタイルに強引に引きずり込んだような解釈がひとつもないのだ。」「リズムにのる、ということはビートをつかまえる、ということである。リズムを取り入れる、ということはビートを解読する、ということである。」「日本語をリズムにのせているのではない。リズムを日本語にのせているのだ。自分自身のビート感で様々なリズムを”日本語化”してしまうのだ。」


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by barcanes | 2017-02-19 20:16 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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