この世界の片隅Funk

1/25(水)

今日はFunkの教科書の一節から。「ファンキーであるというのは、何の制約にも縛られず、本能の声に耳を傾けて人間のあらゆる在り方を積極的に肯定できた上で、ありのままの自分を意識することを意味する。ファンキーというのは、生き方を指すのだ。」(リッキー・ヴィンセント著 宇井千史訳 「ファンク 人物、歴史そしてワンネス」ブルース・インターアクションズ p.25)

「何の制約にも縛られず」というところが捉え難ければ「どんな制約があろうとも」に置き換えても良い。もう一つ、「ファンクというのは、中身が何であるにせよ、その時の必然性に応じているもの」(ジョージ・クリントンの言葉)。

それでファン研アニキは「スーパーで300円のマグロなんだけど美味かったからゲンちゃんに食べさせようと思って持ってきた。」それと先日観て良かったからと「この世界の片隅に」の原作マンガも貸してくれた。その気持ちが持ち込みFunk。

基本的な意味において国家と戦争はセットであるから、国家に属する以上は完全な非戦を主張することはできない。この国では防衛と戦争とを分離してはきたけれど、やはり防衛は戦争の一部である。非戦国家とはマヤカシでもあるけれどひとつのチャレンジでもあったのだろうとも思う。非戦国家とは言え、非戦を唱えれば国家民であることの自己否定ということになるわけだから、チャレンジとしては非国民だらけの国が成立できるかどうか、ということになる。

最終的に非戦の誓いといえば、徴兵あるいは志願の拒否という一点にかかってくる。それに罰金刑が課せられれば非戦とはお金で買うものであり、あるいは収容されるとすれば国中が収容所ということになる。つまりこの国は戦後以来の収容所国家であり、我々は囚われの民と言うことができよう。陰謀史観的に嘆いているのではない。それは我々の制約なのである。

制約の中に生まれ、制約の中にいることにも気づけないという制約の中で我々は生きている。Funkする条件は整っているのだ。どんな制約の中でも、自分と自分の周りにFunkの小さな領域を開くこと。それが我々のやっている些細なことである。

あるいは、機械的な職場に非人間的なものを感じている者なら、その仕事が機械に置き換え可能で、いずれその仕事を奪うであろうロボットと同じ線上で働いていて、気づいたら既に周りは制約以上のことをしないロボばかりであることに気づく。真面目にせよ不真面目にせよ、ロボは身を守っているようで自らの首を絞め、周りに迷惑をかけないようにしているようで実は社会をより厳しくしていることにまでは気が回らない。ちゃんとしてるフリせずダメって言っちゃえばいいと思うけれど、それでもそんなロボとしての生き方も、その人がそれでいいのなら肯定しようじゃないか。

ロボにならずに人間の仕事をしてゆくためには、ロボとは全く違う線上にある仕事の仕方(あるいは遊び方)を選ばなくてはならない。私の職業がロボに置き換え可能か知らないが(その方が愛想の良い店になるかもしれない)、その違いとはちょっとしたFunkなのだと思う。

どんな制約があろうとも、本能の声に耳を傾けて人間のあらゆる在り方を積極的に肯定できた上で、ありのままの自分を意識し、その時の必然性に応じたことをする。それはほんの些細なことでいいし、それでもFunkできないこともあるさ。

第一希望がダメならDexysの”Plan B”で行こう。Specialsの”Enjoy Yourself”に乗せて、我々はFunk Up Yourselfで。あるいはFunk Yourself Downかもしれないけど。この店もまた 、この世界の片隅である。
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なかなか映画館に行くチャンスがないので、読めてよかった。


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by barcanes | 2017-01-31 23:11 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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