才能と部品

9/28(水)

私と同年輩の娘を持つ客人と、子供の才能について。何か光るものがあれば、どこかで習わせることで才能が花開くかもしれないのに、その光るものに気づいていないのではないかと。そして習わせなければそれが開かないのではないか。教師が親ということになれば親の得意なことに引っ張るしかないし、そうでもなければお金ということになる。

しかし最近注目の女子テニス大坂なおみちゃんなんかは、シロウトの父親が教えてたっていうから、光るものは光るもんだと思ったりして、自分に言い訳したりする。言い訳というのは、「子供がやりたいと言ったらやらせてあげないわけにいかないだろ」と言い切ることのできる、稼げる父親に対してである。

飛び抜けた才能のある人生もいいかもしれないし、逆に才能に縛られる人生も大変かもしれない。自分は人に習うことが苦手だったから、習い事には否定的。でもいい教師に恵まれたら違ったかもしれないし、人に教わることに慣れるのも大事かもしれない。でも飛び抜けたものがなくたっていいと思うし、親の影響が良くも悪くも子どもに迷惑がられるぐらいでいいとも思う。やりたいことは大きくなってから自分で見つけたっていいんじゃないだろうか。

深夜には「999」の話。私はテレビ・シリーズの夕方の再放送を見て、エンディング・テーマでほわーんとしていた小学生だったが、映画は見ていない。メーテルが実はヒドくて、鉄郎を機械の部品にしようとしていたらしい。人間はネジとしてネジよりも優秀だと。作者は戦争の時代の人だが、そのテーマは今でも有効だと思う。戦前も戦後も現代も、何も変わっていないのだろう。だから、ひとつの反戦平和思想としては、ネジよりもマジメであってはならないのだ。壊れたり緩んだりしなくてはならない。命令に背いたり、期待に外れたりしなくちゃならない。

どんな親だって子供にネジになってほしいとは思わない。人と違った才能を伸ばしてほしいと思ったりする。結果、人と違った部品として組織の役に立ってしまったりする。どうせだったら好きな部品になりなさいと。新しい部品を作ったって部品は部品である。ならば、不マジメであってほしいと思う。部品として社会に居場所を見つけるよりは、人に迷惑をかけたりかけられたりするぐらいで社会と関わって、誰かに必要とされれば(必要とされなくたって)それでいいんじゃないかと、不良品の父は思っております。
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映画は見てないのですがレコードはあるのです。

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テレビ版の主題歌エンディング(共に平尾昌晃作曲)はこちらに入ってました。歌はささきいさおと杉並児童合唱団です。


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by barcanes | 2016-10-16 23:46 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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