何も特別なことのない一日、と不安

5/11(水)

なじみのメンバーといつものように音楽や今後のイベントの話をして、深夜に雨が激しくなった。客足の気配はなく、久しぶりに暗い時間に家に帰った。眠れないので久しぶりに新聞を読んだ。わざわざ駅の売店で買ったものの目も通さぬままに置かれた先週ぐらいの新聞。一面からザッと日曜版の特集や書評と、別刷りのコラムを読んだ。

「何も特別でかわったことがない一日が幸せ」という父の言葉の理由を知るのは父の死後、若い頃に戦争による大病を患っていたことを知ってからだった、というお話。その下の別のコラムには、ゆっくり赤ちゃんの顔を眺めて一日過ごしたりすることができなかったのが後悔で、徐々に仕事のペースを落とし、13年かかってなんとか間に合った(と思っている)というお話。(4/24毎日新聞日曜版)

私はそんなこととっくに気付いちゃって、仕事のペースも生活のペースも落ちちゃって、自分のやりたくないことは一切せず、ほとんど毎日子供と遊べて家族でご飯を食べられて、そんな幸せを噛みしめているわけですけど、それはそれで不安で一杯です。安心のために少しは蓄えが欲しい、というのは北方の血に顕著なのかもしれませんが、果たしていつから不安になり、ということはその不安の前提となるべき安心がいつからあったのでしょうか。

やはりそれは極端に言えば、親元にいた子供の頃に形成された安心感は、自分に子供ができることで終わり、子供に引き継がれるべきもの、ということなのでしょう。安心を喪失して不安になるぐらいならば、最初から不安である方がいいのではないか。社会や世界は、そもそも不安であったではないか。などと考えてみても、荒漠たる不安の中にいつでも崩れ得るような壁を立ててでも作るものが安心であって、楽園のような安心が先にあってその外部に不安があるからわけではない。不安は本質的なものであるのでしょう。不安に突き動かされて人や世界がうごめくのであれば、不安もまたひとつの欲望なのかもしれません。

そうして考えてみると、一時の、あるいは幼少の一時期の安心のために不安はあるのではないだろうか。安心があるから不安に耐えられるわけではない。不安があるから、安心を自分ではない誰かに持っていて欲しいのではないでしょうか。

年をとって後から分かることがあるって書くのは分かりますけど安易な言い方で、ギリギリ間に合った!って言ってるほうが面白いとは思う。それでも「何も特別なことのない一日」というのが「特別な一日」であるというような、陳腐な文章が安眠へと誘ってくれたことも確かだったのです。

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本文とは関係ありませんが、昨夜はNeal Casal。Jackson Browneフォロワーとばかり思っていたのですがそうでもなく、ボビー・チャールズとかレオン・ラッセルとか、そういうのが好きなんだそうですね。いっそうスワンプに聞こえてきました。


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by barcanes | 2016-05-11 18:24 | 日記 | Trackback | Comments(0)
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