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サウンド/ノイズ、清浄/濁り、S/N比と放浪芸


音楽の進化と退化、なんて言うとちょっとメンドクサいことになってしまうが、たとえば産業音楽としてみれば80年代の歌謡ポップスはひとつの頂点だったろう。マルチ・トラックに多くの職人ミュージシャンを駆使し、時間と費用とスタッフ、そして広告やメディアも十分に使って、商品をたくさん売った。

音楽録音物の制作者もリスナーも共にノイズを嫌い、音楽のデジタル化が進み、薄っぺらい圧縮音源に物足りなさを感じるようになる。それはノイズに対するサウンドの割合、いわゆる「S/N比」を良くしようとした帰結である。その結果、キレイなものに生々しさを感じられないということは、それは体験としては薄いということになる。(逆に言えばそういうものに美しさを感じるような人たち、MP3音源が好きという世代が出てくるのも頷ける話である。)

極端に言えば、S/N比の悪いものが体験、ということになるかもしれない。抽象化された概念、端的に切り取った映像、簡単に言い換えた言葉、それらもまたノイズを排した清浄である。不潔を嫌ってなんでも除菌、腐らない食品、抗生物質の効かない耐性菌。不幸や差別、汚濁から目を背け、キレイなもの美味しいもの気分の良いものに囲まれて生きようとする。S/N比の良いものを選ぼうというのも時代の帰結であろうが、その分だけ体験から人間を遠ざけることになったのだ。

生きることが体験であるなら、ノイズ含みのものにこそ我々の求めるものがあるはずなのではないか。ノイズだらけの時代の欲求が、S/N比の良くなった世代(私は80年代を丸々、小中学校で過ごしている)を追い越し、時代に取り残されつつあるのかもしれない。

CDが売れなくなったと言って嘆くけれど、産業は家内制手工業に戻り、ミュージシャンは実演販売でCDを手売りし、人々の生活や人生や精神や妄想を語り、江戸時代の門付芸のように生きる人々をセレブレイトすることを生業とする。音楽は社会を先取りする、という見地からすれば、社会は江戸時代ぐらいを目指して後退という名の進化を遂げるのだろう。

亡き小沢昭一の力作「日本の放浪芸」は全4部作、そのうち私は第一作(1971年、CD7枚組)を所持しているが、その題目は「祝う芸」から始まり「説く芸と話す芸」「語る芸」「商う芸」「流す芸」と分類されている。私の店などに歌いに来てくれるミュージシャンたちは、そのいずれか、あるいはそのいずれもの生き残り/リバイバルかもしれない。

そこにしか音楽の帰結はないのかというとそうではなくて、この作品の解説(郡司正勝)には「放浪芸」に対して「都市に定着した舞台芸術」というものを置いている。いわゆる歌舞伎のようなクラシック化した芸能をいうのだろう。音楽で食う、ことを目指す一群にはこのようなクラシック化の欲求もあると思える。

小沢昭一本人によるというフィールド・レコーディングのせいもあるが、ノイズとは文字通りの騒音ということではなく、精錬された芸の精緻という氷山の中の一角、ではない水中の方、というものでもあるのだと思う。いつの時代にもどの分野にも、残るものと消え去っていくものがあり、時代の試練に耐えられなかったものがノイズとして捨てられていくということはあるのだと思える。

ノイズの方を面白がる性質としては、既に知られたものや人気のあるものより、メジャーになりきれなかったものを面白がって掘り出し探し出し、光を当てたりすることが好きなのであるが、ではそんな我々が楽しみをどうやって作り出していくのかと言えば、それはやはり、自分たちがノイズになればいいのだと。自分たちでノイズを作っていけたら楽しいんじゃないかと、そんなことをいつも文句ばっかり言ってるウダツの上がらない年取った若手に言われて、たまにはいいこと言うじゃないかと、いつになく盛り上がった夜の話であった。

とは言え、ノイズこそ我々の求めるものだ、と言うとたぶん言い過ぎで、湧き水を煮沸せずに飲めるようなところに、我が国の清浄/濁り(これもまたS/N)の潜在的イメージがあるのかもしれない。臭い湘南海岸で穫れた魚なんか食べたくないとは、以前よく言われたものである。そんなものでもわざわざ食べに来る観光客がいたりするのを見ると、太平洋近海で穫れた魚と同様、ノイズをいかように摂取するかは、宣伝やメディアの力によっていかようにも位置づけられるものだとも思える。
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by barcanes | 2015-11-07 06:54 | 日記 | Comments(0)