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7/16 空虚に向かう列車


安保関連法案衆院委員会強行採決。与野党相まみえての茶番劇。予定調和・・・ってつぶやいたら、「様式美」と呼びたまえと友人が教えてくれた。国会前の反対デモに数万人。僕は「野次馬・・・」とつぶやいてしまい、一日モヤモヤしてしまった。

デモを否定しちゃいけないし、行かない人が何も言う資格ない。知り合いも何人も行っているようだし、僕はただお祭り騒ぎが嫌いなだけだ。安保法制にももちろん疑問があるし、立憲主義に抵触していると思う。アベちゃんも好きじゃないし、そもそも自民党的な大樹に寄り添う主義が好きじゃない。改憲やぶさかではないが、改悪よりは保持の方がマシかもしれない。デモの人数が増えれば世論にも影響を与えられるしマスコミも動く。野党は活気づき与党は少なからず驚異をおぼえるだろう。

それでも「野次馬・・・」って思ってしまったのは何故なんだろう。自分は庶民というものをどこかバカにしているんだろうか。そんなことしても無駄だと、思っているのだろうか。政治的な手法のすべてがくだらないとは思っているけど、そんな罠にハメられずに端から見てた方がいいのだろうか。誰かがやってくれなきゃ困ることを、余計なお世話だと感じているのだろうか。そもそも諸悪の根元は人間なのだから、地球の野次馬みたいな人間なんてみんな滅んでしまえばいいとホントに思えるのだろうか。

よく道路脇に花が手向けられていたりする。あれがイヤだ。事故の多発ポイントとして注意を促す意味もあるかもしれない。先日川崎で中学生が殺された事件。川っぺりに花束やジュースやらお菓子やら、たくさんの供え物が山積みにされているのをテレビで見た。人はどうしてそう勝手なことをするのだろう。ジュースなんかもう飲めないし!死者の魂はどこか帰りたい場所へも行けず、そこに縛り付けられるのではないのだろうか。野次馬にわざわざ現場へと足を運ばせるのものは、いったい何なのだろう。ただ手を合わせたいという気持ちなのだろうか。それは率直な、無考慮で無意識的な庶民感覚なのだろうか。

墓参りもそうかもしれないけど、現場の感覚というのが我々には必要なのだろう。それが例えフィクションだろうと。日本の中心に天皇というフィクションが必要なのと同様に。私も基本的にその必要性は感じている。お参りなんて本気でしたことないけど、神社に行くのと同じだ。現場は誰にだって、その人の立ち位置にあるはず。そんなこと分かっているからこそ、人は外に出るのだろう。現場なんて孤独すぎるから。そもそも自分の場所なんてこの世にはないのだから。

僕らは死臭の漂うGuy Clarkの「Old No.1」を聞きながら、「最近死ぬのが怖くなったんだよね」っていうアニキの話を聞いていた。死は僕らの身近に転がっていて、法律が変わって状況が変わっていったとしてもそれは変わらない。身近に転がっていることに気づかざるを得なくなった、のかもしれないし、ますますそれは切迫するのかもしれない。しかしなんにせよ、自分と自分の身近な人を守るのに公共サービスを当てにすることなんてできないのだ。

人はいつか明日死ぬ。どんな人にも死ぬ前日が来る。今日がその日かもしれない。音楽のある一部分は、そのように我々に常に死を漂わせてきた。一方で音楽はまた、我々に死を忘れさせようともした。僕もやっぱり、まだまだ死ぬのが怖い。自分は死臭を嗅がないように生きてきてしまったし、流浪の家系のせいか墓参りなんてしたことがない。だからあの空虚なものに迫っていく野次馬が怖いんだ。

Like desperados waitin' for a train
Like desperados waitin' for a train...
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多くを巻き込めば巻き込むほど重力を増して、すべてが空虚に吸い込まれていくようだ。反対勢力含めての全体主義、にならないように静かに見守っている人たちがいる。僕は列車に乗るなら空いてる列車に乗りたい。店も空いてる時がいい。そして平和のためには、いい酒を飲んでいたい。


by barcanes | 2015-07-16 06:10 | 日記 | Comments(0)