怒りとあきらめ、受容の段階
2013年 04月 04日
「キューブラー=ロスの死の受容の五段階」というのがあるそうで、これは死を宣告された患者が自らの死を受け入れるまでの過程に共通性があるとした調査である。
否認→怒り→取り引き(没頭)→抑うつ(あきらめ)→受容
子供に障害があると告知されたときの両親の受容についてこの本では述べられているのだが、「実は、このキューブラー=ロスの五段階はとても適応範囲が広く、受け入れがたいものを受け入れていくときに普遍的に見られるものではないかと思う。たとえば己の配偶者の真の姿を受け入れてゆく経過も、同じ過程で了解できるのではないかと思うのであるが。」と述べられているところが興味深かった。(「発達障害の豊かな世界」杉山登志郎著 日本評論社 2000年)
まず、そんなわけがないと医師の誤診を疑い、大丈夫だといってくれる人を探そうとする。次になぜ自分だけがそんな目に遭うのか、という怒り。その原因やきっかけを探しては怒り、あるいは周囲が協力的でないと怒りを覚える。
次は取引である。宗教に頼ってみたり、新しい治療や手段などを必死に試す。それがダメとなると諦めたように周囲との関わりを避け、孤独に落ち込んでゆく。そのような苦しい過程を経て、「頭ではなく心で」現実を受け入れるようになるという。
我々は怒りを避け、諦めてしまうことで現実を受容しようとしがちだ。しかしこれは、心で受け入れたことにはなっていない、ということになる。我々は時に、否定的態度をとることをよしとされず、素直に受け取れと言われたりする。しかしこれも、表面的な受容にしかならないのだろう。
未曾有の出来事が起きて、何の解決ももたらされないこの現実を、我々はどう受容して、またどのように受容しようとしているのだろううか。諦めるにしても怒りと逡巡なき諦めは、やはり現実逃避でしかないのだし、怒りと没頭の日々の後に諦めが現れたのだとしたら、それもまたひとつの現実の肯定、肯定的受容なのだろう。
否認→怒り→取り引き(没頭)→抑うつ(あきらめ)→受容
子供に障害があると告知されたときの両親の受容についてこの本では述べられているのだが、「実は、このキューブラー=ロスの五段階はとても適応範囲が広く、受け入れがたいものを受け入れていくときに普遍的に見られるものではないかと思う。たとえば己の配偶者の真の姿を受け入れてゆく経過も、同じ過程で了解できるのではないかと思うのであるが。」と述べられているところが興味深かった。(「発達障害の豊かな世界」杉山登志郎著 日本評論社 2000年)
まず、そんなわけがないと医師の誤診を疑い、大丈夫だといってくれる人を探そうとする。次になぜ自分だけがそんな目に遭うのか、という怒り。その原因やきっかけを探しては怒り、あるいは周囲が協力的でないと怒りを覚える。
次は取引である。宗教に頼ってみたり、新しい治療や手段などを必死に試す。それがダメとなると諦めたように周囲との関わりを避け、孤独に落ち込んでゆく。そのような苦しい過程を経て、「頭ではなく心で」現実を受け入れるようになるという。
我々は怒りを避け、諦めてしまうことで現実を受容しようとしがちだ。しかしこれは、心で受け入れたことにはなっていない、ということになる。我々は時に、否定的態度をとることをよしとされず、素直に受け取れと言われたりする。しかしこれも、表面的な受容にしかならないのだろう。
未曾有の出来事が起きて、何の解決ももたらされないこの現実を、我々はどう受容して、またどのように受容しようとしているのだろううか。諦めるにしても怒りと逡巡なき諦めは、やはり現実逃避でしかないのだし、怒りと没頭の日々の後に諦めが現れたのだとしたら、それもまたひとつの現実の肯定、肯定的受容なのだろう。
by barcanes
| 2013-04-04 13:01
| 日記
|
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