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三陸の漁師の親方

NHKのドキュメントで津波の被害に合い、道路が遮断され孤立した三陸の漁村のことをやっていた。そこは伝統的に漁師の親方が強い裁量権を持つことになっていて、この親方は娘婿と共に強い責任感とリーダーシップを持って対処に当たっていた。ここに住む人たちはみな家族なのだ。生き残った軽トラは村の共同財産だ。食料物資がなくて二人で仙台まで行くことになった。軽トラのタイヤが瓦礫だらけの道ですぐにパンクした。この町に乗り捨てられている軽トラを見つけタイヤを外して、すぐに付け換えた。荷台満載の物資が落ちないように、親方が大の字になって荷物の上にしがみ付いて帰っていった。

廃材で仮屋を建てトイレを作り、しかし風呂に困っていると、行政に頼むより早くボランティアの人たちが来て風呂を建ててくれた。仮設住居を作らなければならないと、行政を待っていても埒があかないので、自分たちで権利の持っている土地を融通し、ボランティアの測量士を呼んで、造成と工事用の道路を拓くことまで自分たちで始めた。

仮設住宅の建設とそれまで違う場所に移ってほしいという行政の説明会で、我慢して聞いていた親方はとうとう噛みついた。それはいつまでに何戸、本当にできるのか、「努力する」ではダメだ。必ずやると言わなければ。住民が離れ離れになってしまえば、村の再建ができなくなる。「おれは必ずやっから」と強い眼差しだった。

そもそも自分たちで決められないような問題に対処するのが行政の役割なのだろうが、どうしても個々の事象に対応できず、そして何をやるにも時間がかかってしまう。自分たちのことなのに自分たちの力で決められないのが悲しい。しかし、人は危機感があれば、危機感を共有させる力があれば動くのだ。大工や土木の腕があれば、誰かを頼らなくてもあっという間に何かが建ってしまう。行政もそれを認め、引っ張られていくような強烈なリーダーシップだった。責任とはこういうことを言うのだろう。

強権が発動されるよなムラ社会から遠く離れてしまった我々のような人間は、つまり責任というものがどういうものかも分からなくなってしまった。辞めたり逃げたり、お金を払ったりすることは、「死」ということの抽象的な代替でしかない。つまり社会的な死ということだ。責任とは、辞めたり逃げたりお金が出てくる以前に、何かを守るために出てくるもののはずだ。人はどんな人だって、まずは自分の命を守る責任があり、それ以上に守らなければいけない何かがあるときには、それらの順番が逆転することもあるだろう。

社会的な死と生命の死を分けて考えることは、人を一元的な責任の生き方から解放したかもしれないが、それは自由の罠でもあった。我々は自由を手にしたつもりで、実は自分の人生に責任を持っているという感覚、責任感というものを捨ててしまったのだ。それは死を前にしたときに改めて我々の目前に叩きつけられる。死の危機感、危機感こそが分裂した我々にとって必要なものだったのだ。

資本主義にとって戦争や軍備が不可欠なのはそのことにも関係しているのだろう。おそらく我々の経済的幸福、金銭的利潤とはこの分裂によってもたらされ、お金がほしければ何かを捨てろと言われて、捨てた何かがあったことさえ忘れてしまったのだが、危機を前にして、それを一人びとりが思いだそうとするべきなのか、それは国家や行政や社会が代行するべきだと考え、それを信じてよいとするのかは、どうやら考え方が分かれるところらしい。

実際に危機が起きたときに、自分の生命を、自分の生活を自力で守ることができるかどうか、住居や食料や生活の条件を自力で、自分たちの力で守ろうとするのかしないのか、誰か(あるいは国家や社会)が助けてくれることを信じてもいいけど、それ以前にすることがあるんじゃないのか。それはやはり実際にどれくらいの危機なのか、なってみないと分からないのだろう。しかしそのときに、誰かに助けてもらわないと生きられないと思うなら、やはり同じように誰かを助けようと思うし、誰にも助けてもらえず自力で生きなければいけないと思っても、やはり誰かを助けなきゃいけない。

責任とは自分の人生の代替者が自分しかいないということだ。社長の首をすげ替えても会社が成り立つような、そんな替わりのいる社長にどんな責任があるというのだろうか。首相や政治家が違う人に替わっても、変わらずこの国があるのなら、彼らにどんな責任があるのだろうか。誰かがやらなきゃ困るけど、誰がやっても同じような仕組みを作ったのなら、彼らの責任はその仕組みを「努力して」守ることにのみ果たされる。彼らの守るものは生死の問題ではなく、お金を回すその仕組みである。

彼らの責任感は、彼ら自身の生死の危機感とは完全に分裂している。つまり代替者のいる彼らには、その仕組みを守ること以外には何の責任感もないということだ。残念ながら。人間として、あの漁師の親方と比べるまでもない。
by barcanes | 2011-05-01 20:46 | 日記 | Comments(0)