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失敗の科学

原発作業員3人に甚大な被曝。放射性物質が検知された水道水のエリアが広がり、ペットボトルの水の配布や増産などが行われた。やはり首都圏に原発があったら、事故によるパニックは相当のものになるのだろうと思わせる。そして、原発の危険と放射能に対して、人々がほとんどなにも知らなかったことがよく分かる。もちろん自分もだ。これぐらいの軽度の数値の場合、どのぐらい安全でどのぐらい危険度があり、そしてどのような年齢の人に影響があるのか。それは洗い落としたり、排泄されたり、減衰したり、ヒトの治癒力で克服できたり、どのような対処法があるかということを、我々はやはり実際に体験しないと分からなかったのだろう。

今日は東電と政府の原子力政策について少しだけお勉強。国は安全の指針として、国民の安全と原発の安全という2系統を考えたとき、国民の安全は原発の安全が建前で、原発を守れば国民を守れるという理屈であることが分かる。つまりは国民の安全よりも原発の安全を優先している。このような「想定外」の事態を想定していないのは当たり前で、想定しなかったから想定外なのだ。人はやはり失敗しなければ分からないのだ。

失敗が許されない行為に対して、あらゆる事態を想定して万全を期せないのであれば、人はリスクをおかして、自己責任で行動するしかない。原発でなくとも、大きなプロジェクトの場合、その責任の所在をはっきりさせなければいけないが、一つの失敗がこのような惨事になってしまう場合は、人事の首を切るぐらいでは済まないので、その責任そのものが想定できないのだろう。原発の政策を最初に推進した人たちがいて、賛同した人たちがいて、それを実現し運営し、持続させてきた人たちがいて、一方で常に反対しながらも止められなかった人たちがいる。大小の差はあれ、すべての人たちに責任の一端がある。とっくに引退し亡くなった人たちにも責任がある。責任の所在があまりにも大きくてはっきりさせられないままに、我々は大きなリスクをおかしてきた。

私は科学の力を信じたい人間なので、原発の技術も信じたいし、おそらく技術的には大方問題はなかったのだろう。しかし、安全の指針が一系統しかなく、原発ありきですべてが成り立ってしまう世界を作り上げて、もはや原発なしの世界が成り立たないようにしてしまうのは、普通に考えて理屈に合わない。万全を期さない技術、限定的な世界で成り立つ技術というのは、科学としてはやはりまだまだ完全ではなかったのだということだろう。

私は科学の力を信じたいし、科学者も技術者も、常にもっと上を目指すものだと思っている。今回の大失敗を糧として科学的にも技術的にも乗り越えていける力が人間にはあると思う。そこに必要なのは、想定を越える万全を期さなければいけないということだし、99%大丈夫でも、最後の最後の0.000001%まで突き詰めていかなければならないということだ。しかし、完璧というものはないと思う。原発の技術自体はほぼ完璧だったのだろう。しかし、現実の世界は、自然の世界には、完璧ということはないのだ。失敗がある世界という方が自然なのだ。

我々の人生だって、失敗の許されない完璧な人生なんてあり得ないし、つまらないだろう。おそらく、失敗の含まれる科学というものを我々は必要としているのだ。人間の知性は完璧を求めるもので、完璧を求めるあまり、完璧さが成り立つ世界だけを見ようとしてきた。そしてそれ以外を見ないようにしてきた。それは原発だけではなく経済もそうだし差別もそうだ。我々は常に視野が狭く、変化に気がついても、今までと同じでいいや、と我々の世界の壁を保守しようとする。

原発の問題についても、過去に様々な提言があり反対運動があり、改善点があり、危険性を指摘されてきたことが、今噴出している。そのすべてを我々の保守的な心が前例主義に従って、今のままでいい、変化を起こすのは大変だ、といういかにもお役所的な体質のように見捨ててきたのだ。

人は失敗を犯す。失敗を恐れ、失敗を認めず、失敗を謝るだけで失敗を反省しない。一つ一つの失敗を人のせいにし、責任を転嫁し、責任から逃げることに慣れてしまうと、失敗という言葉を自分の世界から遠ざけてしまい、そしてどんどん怖くなってしまい、う。そして自分の世界にあるはずの失敗という言葉を見ないようにしてしまう。

我々は自分たちの世界に「失敗」を、我々の責任で、もっと認めていかなければならない。失敗と責任はワンセットだ。責任のない科学は政治や戦争の道具となり、奴隷となってきた。失敗のない科学は利権と経済と我々の生活のすべてにハッタリをかまして、夢と挫折をもたらしたのだ。我々は失敗を克服して失敗から学び、失敗を挽回する。そのような技術や知恵があるはずだ。失敗のある知恵を持ち、失敗を含む科学を考えていかなければならない。我々は大きな失敗を経験したのだ。これが大きなチャンスになればいい。

この失敗をチャンスに変える、エネルギー政策に大きな転換を求められるようなアイデアや技術を持った人たちがいる。東電の電力支配体制も揺らぐだろう。大いに検討に値するものがたくさんあると思う。一方でそれらを止めてきた東電や政府の権力があり、これからはその戦いになるのだろう。民衆は常に負けてきたが、これからは科学が失敗の側につくべきだ。嘘や偽の希望や夢は崩れ去ったのだ。この失敗を含む現実の中から、たくましく夢や希望を築いていかなければいけない。

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2週連続で夜の計画停電が定休日に重なった。停電営業する気満々なのにな。今日も停電中たくましく開けている知り合いのお店を回る。ヘッドライトとLEDカンテラを持って真っ暗な街を歩くのは楽しい。ろうそくの灯りはやさしく暖かい。BGMのない静かなお店に料理の音やにおいが漂う。暗く寂しい忘冬の夜に、わずかな灯りを求めて人が肩を寄せ合いお酒をすする。人が求めているのは電気ではなく、ぬくもりなんだ。

10時までの予定が8時半頃にぱっと電気がつき、停電は終わってしまった。この調子だと、僕のお店は停電の日でもあまり関係ないな。ちょっとつまんない。
by barcanes | 2011-03-24 15:24 | 日記 | Comments(0)