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ギブアップ

敗北宣言。とうとう痛くて走れなくなった。左足の甲が疲労骨折のような状況かもしれない。右のかかとからアキレス腱にかけての痛みも取れない。レースまでもう残り2週間ちょっと。最後まで去年より1分でも早い2:58という目標であがいてきたが、とうとう無理だということを悟った。痛みをごまかしながら、それでも可能性がある限りなんとか頑張ってきたので、ちょっと悔しいが、諦めてしまおう。走る前に敗北というのは、逃げみたいで情けない。でもなんとか受け入れてみよう。

今回はレース半年前から始動し、10月までは調子良く、調子良すぎたぐらいだったのが災いした。スピードを上げ過ぎて最初に脚を痛めたときに、しっかり休んで治しておくべきだった。走って治る疲労(積極的休養というやつ)と走って治らない痛みというのものの判別が下手である。いったん痛んでしまえば、走る前にはマッサージして、テーピングしてストレッチして、走り終わった後も風呂に入ってアイシングして、またテーピングしたり湿布したり、前後に2時間も3時間もかかってしまう。走るのに2時間も3時間もかけたら、全部で4,5時間を毎日必要としてしまう。これは結構きつい。毎日ギリギリで、お店にもしわ寄せが来てしまう。それに私は立ち仕事で、毎夜飲みすぎて、ぶっ倒れるように日々を終えてしまう。これでは治るものも治らず、昨年まで2日で治るものが、今年は3日はかかるようになった。

そして、走りながら走法が変わってゆくときに、それに伴って姿勢や身体の使い方が変わっていき、そして特に脚の柔軟性が必要になってくる。柔軟性の上に脚筋がついてくる。本来、それには長い時間がかかるのだろう。弱いところに負担がかかり、それが治ればまた違うところに負担がかかり、別のところに痛みが移動し、そうしているうちに、とうとう筋肉の付け根の、骨との接着点に負荷がかかってしまう。走法改良と柔軟性と脚筋、この関係性の進み方が良くなかった。もっとじっくり時間をかけて取り組まなければならない課題なのだ。

つまりスタイルというのは、そう簡単に変えられないし、変えてはいけない、少しずつしか変えてはいけないということだ。急激に変化するということには痛みが生じる。そしてその回復力は年齢とともに衰えてゆく。生きるスタイルも社会のスタイルも、きっと同じことだ。それでも私はスタイルを変え、改良してゆくことに何のためらいも感じない。改良は改悪かもしれなくても、進化と退化は同義かもしれなくても、ものごとは先に進むしかないのと同様に、変えてゆくのだ。

なぜならそれは手段だからだ。スタイルは目的ではなく、何かの目的のための手段だ。だから文化などというものが目的化してしまって、保存だとか流儀になってしまった途端、スタイルが残って「何か」が死んでしまう。我々は常に手段を残す。目的とはその「何か」で、それを生き返らせるために我々は手段を利用する。だからその手段を工夫し改良する。我々はその「何か」に言葉や形を与えることができない。だからそれに対処するやり方を人それぞれに持ち、それを磨く。それが生きることだと人は言う。幸福な人生とは幸福な手段であって、幸福な目的であるかどうかはわからない。だから報われなくても闘う人は闘い、文句を言われても言いたい人は言い、苦しくても走る人は走るのだ。

ハッピーや幸せを求めるのはよい。そのような手段を求めて手に入れて、それでどうしたいのだ!ハッピー・ランニングとは何ごとか!楽しく走るとはどういうことなのだろうか。楽しく走り、そしてそれを継続させ、そのためのモチベーションをどのように持ち続ければいいのか、極端に言えばそれがよく分からなかったのだ。走るという手段が目的化してしまうと、やはり苦しくなる。毎年レースに出て良いタイムを狙っていくことぐらいしか、目標が見つからなかったのだが、それに対してストイックになることに少し疲れ、飽きてしまった。でも分からなかったから続けてみた。それでとうとう自滅してしまったのだと思う。身体や脚が、とうとうストップをかけてくれたのだと思う。

そろそろ楽しんで走るということにシフトしていかなければならない頃なんだと思う。というのはやはり思い当たるところがあって、昨夏の山岳レースと秋のマラソンの後、やっぱり燃え尽きてしまったのだ。今年はどうしても火がつかなかった。やっぱり、走ることは何か別のことのための手段にしておいたほうがいいのだろう。そうして毎年、ベストを尽くして走り続けられるようになれれば、きっといいのだろう。というのも、何か別のこと、というものが最近見つかりつつあるからだ。走ることはそこにつながったのだから、決して無駄じゃなかった。

僕が走り始めたのは33歳で、奇しくも村上春樹が走り始めたのと同じ年だった。彼は若いときに飲食店をやっていた。僕との共通項はこれぐらいで、あとは違う点はそれこそ大型トラックいっぱいぶんはあるけれど、僕はなんだか親近感を感じた。これまでほとんど春樹さん(親近感を感じたので、さん付けで呼ぼう)の本を読んでこなかったけど、ようやく面白さが分かるようになってきたみたいだ。それは僕も走るようになったことと関係しているのかもしれない。

文庫本になった「走ることについて語るときに僕の語ること」(2007年)を読んだ。とてもよく分かった。こんなときに自分が読む本としてちょうど良かった。気になったところを引用。

「もし忙しいというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。」

「具体的に言おう。
 誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。
 そういう性格が誰かに好かれるとは考えていない。感心してくれる人は少しくらい(たぶんほんの少し)いるかもしれない。でも好かれることはまれだ。そんな協調性に欠けた人間に、何かあるとすぐに一人で戸棚の中にひきこもろうとするような人間に、いったい誰が好意(みたいなもの)を抱けるだろう?しかし僕は思うのだが、そもそも職業的小説家が誰かに好かれるなんていうことが原理的に可能なのだろうか?わからないな。あるいはそういうことも世界のどこかでは可能なのかもしれない。簡単に一般化はできないだろう。しかし少なくとも僕にとっては、小説家として長い歳月にわたって小説を書き続けながら、同時に誰かに個人的に好かれることが可能であるとは、なかなか思えないのだ。誰かに嫌われたり、憎まれたり、蔑まれたりする方が、どちらかといえばナチュラルなことみたいに思える。そうされるとほっとする、とまでは言うつもりはない。僕だって他人に嫌われることを楽しんでいるわけではないのだから。」

レースまでに脚の痛みが取れたら、なんとかゆっくりでも完走できるように、また違う楽しみを見つけながら走りたい。痛みが取れなかったら、残念だけど、痛みを我慢してまでは走る気力が出ないと思う。でも来年もまだまだ速く走れる気がするし、これからも続けていきたいと思っています。心配や応援をしてくれたみなさん、どうもすみませんでした。
by barcanes | 2011-01-07 05:49 | 日記 | Comments(0)