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「パプリカ」と「世界の終わり」

たまたまNHKのBSをつけたら、今敏という人のドキュメントと彼の作品である「パプリカ」というアニメ映画をやってて、思わず最後まで見てしまった。荒唐無稽な夢がつながってゆくハードボイルドで、夢を他人と共有できるという発明が暴走してゆく。その中で、何かを信じてストーリーを引っ張ってゆく女性がキー・パーソンだ。ちょうど私は村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでて、似たような構成だなと思った。やはり荒唐無稽な筋書きを引っ張ってゆくのは女性たちだ。こちらも夢や影や壁がテーマになっており、「パプリカ」の夢への侵入とその拒否という、「自我」というようなテーマに重なっているように思えた。

そこに共通しているのは「信じて進む」ということで、進むためには何かを信じることが必要だが、それは信じられれば何でもいいということだ。ある人は「公正さ」を信じようとし、その公正さをより公正なものとしようとすればするほど、世界を小さく限定しなくてはならない。世界が大きければ大きいほど、「公正さ」は幅や広がりや曖昧さや妥協を必要とする。逆に公正さの通用する、小さな世界になると、限定性や特殊性を受け入れなければならないから、そこで信じられるべき不変のものとしては、自分とか自我とか意識の壁とかいうことになる。つまりどちらにせよ、自分以外の「公正さ」を信じようとしても何も信じていないのと変わりがない。いや、「何かを信じている」ということと同義なのだ。

ある人は「本能」や「直感」や「天命」や「偶然」を信じようとするかもしれない。これらも何も確証のない、「何か」だ。あるいは「夢」でもいいし、「影」や「ネガティブ」でもいい。「自分」というものを信じることだって、何の確証のない。何かを信じるということは、何でもいいから信じるということなのだ。ただ「信じる」ということが必要だからだ。それは信じないと進めないからだし、生きることとは進むことなのだ。

だからこそ我々は、何を信じようとするかを考え、迷ってしまう。迷っているうちは生きていないということだ。あるいは諦め絶望し、惰性で生きてしまう。「世界の終わり~」の主人公はきっと、生まれ変わるのだろう。目が覚めたらきっと自分の人生を生き直すのだろう。というより、生き始めるのだろう。そのきっかけが、人生のスパイスというパプリカだというのは気が利いているが、それ以外はすべて聡明で優しい女性というのは、ありきたりで都合の良い男の願望でありすぎだ。きっかけが良い女だとは限らない。

そして今敏は46で癌で亡くなった。HPにも記載された「遺書」には、両親に「あなたたちの子供に生まれて良かった」と言ったら、母親が「丈夫な体に生んであげなくてゴメン」と言われて泣けた、という話と、末尾には「じゃ、お先に」と書き残していた。立派な死にざまだなと思った。死ぬまでちゃんと、生きたのだ。

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今日はクリスマス。今日のケーキはマーマレードのパウンドケーキと、チョコとナッツのパウンドケーキでした。
by barcanes | 2010-12-25 22:21 | 日記 | Comments(0)