日本語再発見ナイト

お店を始めた当初は、日本語の曲をかけるのがためらわれたものであった。外国の歌や音楽ばかりかけていた。我々は子供の頃テレビの歌謡曲を聞いて育ったけれど、いつからか日本語の曲を聞かなくなった。僕は高校を卒業するまでは、むしろ英語が嫌いだったので英語の曲なんて聞かなかった。みんなに嫌がられるから恥ずかしいことのようになってしまったけど、僕は長渕剛が好きでギターを始めた。フォーク的な音楽が好きだった。それがスプリングスティーンやトム・ウェイツやディランから始まって、ブルーズやニューオーリンズ音楽に興味を持ってから一気に世界が広がった。そしてその分だけ日本語の歌やヒットチャートのJポップに耳がいかなくなった。

お店で日本語の曲をかけると、どうも急に空気が変わってしまう。それはバーという空間が、普段あまり飲まない洋酒を飲ませるという非日常的な要素を売り物にしているからだろう。当店の売りのモヒートやラムを飲ませるにはやはりキューバやラテンの音楽が似合うし、ワールド・ミュージックには無国籍でゴッタな不特定の土地への浮遊感のようなものがあり、どこの店とも違うという、自分の店のアイデンティティを表すのにはちょうど良かった。ソウルやジャズやロックにはそれぞれの雰囲気があり、気持ちよくお酒を飲むためのBGMになりうる。英語の曲はタイトルや歌詞でなんとなく分かるような曖昧な感じが間接的で良いのだ。しかし日本語の曲をかけると、途端に現実に引き戻されるというか、俗っぽさに気が緩むというか、日本語が直接耳に入ってきてしまって、間接性が一気に失われてしまう。

なぜそのことをバーが嫌がるかは、酒場での政治談議のようなもので、直接的であることは危ないからだろう。思ったことをそのまま言ってしまえば、相手を傷つけたり怒らせたり泣かせたり、周りの人はかばったりフォローしたり気を使ったりと、曖昧や笑いや嘘やおべっかでなんとか和らげなければならなくなる。そんなバー・カウンターの幅のこの曖昧な距離感の中で、しかし人は、やはりほんの少しでも直接性を求めて酒を飲みに来てくれるわけなのだ。本当のこと、本当の気持ち、一瞬の真実、しっくりくる言葉、飲んで良かったと思える酒の味わい、喋って良かったと思える会話、無言のうちにも気付くひらめき。我々はそんな希少な直接性のために、むしろ間接性を必要としているのだろう。

そこに日本語の曲である。ラーメン屋のラジオ、スナックのカラオケ、有線のJポップ。そんな俗っぽさのためにバーに来てるんじゃないって言われたくはない。昭和歌謡や演歌は我々の記憶に作用し、気持ちが動いてしまうので良くも悪くも空気が荒れる。沖縄や奄美の民謡はケルトやカントリーブルーズと同じようにワールドミュージックとして入ってくる。日本語の曲をかけたときのあの気が緩む感じは、いつしかお店を長く続けるにしたがって、私の肩の力が抜け、(非日常的な)お店自体が私の日常となり、気持ちが緩んでゆくのと同調していくようになった。良くも悪くも自然体になってきたのだろう。そうして近年、殊にこの半年ぐらいは、お店で日本語の曲を流すのがしっくりくるようになってしまった。お酒のラインナップもこだわりが抜け、ケミカルなものや大量生産のものが減り、身の丈にあったもの、庶民的で質の良いもの、安くて美味しいという意味でリーズナブルなものを選ぶようになった。洋酒と同じように焼酎や日本酒も扱ってきたのだから、洋楽と同様に日本語の曲が流れるのも当然といえば当然であったのだ。

特にこの夏に竹原ピストル君が藤沢に来てからというもの、我々に空前のフォークブームが訪れた。60年代ジャパニーズ・フォークのレコードがCD化され再発され、フォーク・フェスも往年のミュージシャンもリバイバルしている。フォークとは民衆、フォーク・ミュージックとはあらゆる民俗音楽を指す。国や言葉や民族が違えど、我々はみな民俗に生きている民衆である。人は国民である前に民俗民衆であると私は思うし、国境も国籍も我々が選んだものではなく制度として与えられたものである。我々は世界の様々な民俗を知り、楽しむことができる、世界人なのだ。だからこそ自分たちの民俗を見つめ直し、作り直し、そして現代のものとして新しくしていかなければならない。それがフォークだと思うわけだ。今まさに我々のフォークが求められているのだと思う。

と前置きが長くなったが、若い人たちが自分たちの言葉でオリジナルの曲を作って歌っているのは本当に素晴らしい。洋楽や外国の音楽のカバーから入っていても、そこから日本語の歌をつむぎ出すことに、私はいちいち感激するのである。そんなことで我らがダメアニキ間瀬さんの提案で、我らが歌姫まえかわちゃんにもっと日本語の曲を歌ってもらいたいという気持ちから始まったのがこの企画である。あまり知られていない日本語の古い曲をまえかわちゃんに歌ってもらい、かけだし学生フォークシンガーのしんぺーには詩を朗読するというチャレンジをしてもらうことになった。
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小雨降る日曜の夜に間瀬さんの尽力でなじみのミュージシャンや音楽好きの面々が集まった。冒頭はしんぺーが和んだ空気の中からものおじせずにポエトリー・リーディングをして、引き締まった良い空気を作ってくれた。二見さんやテツさんの日本語の曲のDJを挟みながら、間瀬さんが岡崎恵美ちゃんとギターとウクレレのデュオ、恵美ちゃんのウクレレの弾き語りはさすがに場慣れしていて安心して楽しめた。まえかわちゃんは間瀬さんが持ってきた五輪真弓の曲と長谷川きよしの曲を間瀬さんのギターで歌った。いつものブラジルの曲を歌うのと違うようで似ているような、彼女独特の雰囲気が出ていてとてもよかった。雨の夜にぴったりの雰囲気だった。そう、まえかわちゃんがうちで歌う日はなぜかいつも雨なのだ。サンドフィッシュ・レコードの宮井さんは自作の詩を作ってきて、ロックに対する愛を読み上げた。この日一番の拍手をもらったかもしれない。飛び入りでぎゅーぎゅーさんと中西さんが即興演奏をしてくれ、盛り上がりが納まってから最後にしんぺーがオリジナル曲を数曲歌った。

とてもやわらかく、素晴らしい雰囲気に包まれた一夜だった。洋楽一辺倒のサンドフィッシュの宮井さんも、「こんな良い雰囲気のイベントはなかなかないね」といたく感心してくれた。特に朗読というのがとても良くて、音楽に混じって朗読を聞くということがみんなにとっても新鮮であり、また語られる次の言葉を待ちながらみんなで静かに耳を傾けている、その時間が面白かったし素晴らしかったのである。集まったメンバーもいつも別々のイベントで来てくれている人たちが一堂に会して、全員がなじみの仲間うちという感じも良かった。内輪のイベントという感じもしてしまうが、人前でいつもと違うことをしようという今回の主旨には、それを見守ろうという温かい雰囲気がとてもよかったし、内輪の馴れ合いという感じにもならなかったのも良かった。

楽器を演奏するとなるとなかなか大変だし、誰でも何でもよいという風にしてしまうとちょっとクオリティが落ちてしまうかもしれない。でも朗読というのは日本語が喋れれば誰でもできるのだ。詩は自作でも詩人の作品でもよいし、絵本でも小説の一部でも、戯曲や小芝居でも、旅のお話でも語りでも何でもよいのではなだろうか。いつもと違うことを人前で発表したりすることが面白いのだ。よく考えてみると、少し前から始めたご飯の会と似ていて、一品持ち寄って自作のものをみんなで共有して味わい合うというは楽しいね、ということなのだ。これも間瀬さんの言いだしっぺで始めたのだが、とても面白い。だからこのイベントも、何か一品持ち寄って、発表してみんなで共有しようという主旨で、続けていきたいなと思っています。発表の会とご飯の会と、交互に隔月でやっていく予定です。みなさんもぜひ参加してください!何をやるかについては相談に乗りますので、参加したい方はぜひ。日本語ということには特にこだわらなくても良いです。
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by barcanes | 2009-11-01 20:44 | イベント | Trackback | Comments(0)
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